穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カミュの転落とは

2019-09-25 07:30:46 | カミユ

 無聊に耐えかね最近プロティノスの『エネアデス』をぱらぱらとめくった。かなりアクロバティックな論法に面食らう部分も多いのだが、重要なキーワードの一つにに『転落』というのがある。イデアあるいは思考の思考からの転落過程で時間や意識が生まれるというのだが、かなりアクロバティックに頭を働かせないと付いていけない。

 プラトン、アリストテレスの後継者をもって自ら任じ、新プラトン主義の創始者であり、エネアデスは古代、中世の西欧の思想界を支配した書物である。ふと思い出したのがカミュの中期の作品の『転落』である。そこで記憶がなにかに引っかかった。新潮文庫を引っ張り出して「あとがき」を読んだ。ない。そこで『異邦人』をみた。私は大抵の本は読むと捨ててしまうのだがカミュの本は書棚に残っているのである。

  ここだよ、と呟いた。異邦人の白井浩司氏の「解説」の一節である。これが記憶にひっかかっていたのである。アルジェ大学で哲学を専攻したカミュは学士論文でプロティノスとアウグスティヌスを取り上げている。タイトルは『キリスト教形而上学とネオプラトニズム』だという。

  これだよ、引っかかったのは。ひょっとして、プロティノス的転落ではないのか。転落(以下括弧をつけないが)の主人公クラスマンは二十年後のムルソーではないのか。ムルソーは「太陽がまぶしかったから」アラブの少年を射殺した。これはムルソーの陳述である。彼は一貫してこの主張を変えず、裁判で反省も悔悟も示さない。そしてギロチンの下に身を横たえたのである。これはプロティノス的転落の初期段階である。

  世間は「太陽がまぶしかったから少年を殺した」を理由なき、理由にならない、動機無き殺人とした。世間というのは評論家、読者である。これをもってサルトルや世間はカミュを「不条理の作家」に仕立て上げた。カミュ自身もあえてそれに異を唱えなかった。

  思うにムルソーは転落の初期段階だった。自分の行為を自己批判するような意識は、だから、なかったのである。

  転落のグラスマンは四十台(二十年後のムルソー)である。場末のバーで見ず知らずの客に絡んでいくが殺しはしない。彼はいまや自分のことを「裁き手にして改悛者」だと言っている。自意識は十分に発達しているのである。もうかなり「転落」しているのである。