つまなさそうな顔をしてタバコの煙を鼻から出していた憂い顔の美女が発声した。
「物自体ってなんなのさ」
立花は不意を突かれて大きな耳をピクピク動かした。
「とくに分からないのは物という言葉ね。者じゃないから人間じゃないんでしょうけどね」
そういわれて哲学の先輩である立花は言葉を探しているようだったが、ドイツ語でDing an sichね。英語でいうとThing itselfだよ」と彼はひとまず彼女の鋭い指摘をかわして時間をかせいた。
「そんなことは分かっているわよ」と彼女はかがんでいた姿勢を起こして鼻の穴から太い鼠色の煙を彼の顔に吹き付けた。
狡猾な彼は「明治時代以来カントに関する著書は百万はあるだろう」
「まさか」
「著作のほかに論文や大学の紀要を加えたら百万ぐらいはあるんじゃないの」
「日本でですか」
「日本だけなら一万ぐらいはあるだろう。そのなかで物自体は何か、と探求したものがあるかということさ。私はその種の論文は不案内だが、どうもほとんどないんじゃないかな」
「どうして、そんな推測ができるんですか」
「物なんて説明しなくても分かった気になるだろう、だれでも」
「はい」
「しかし、彼女の鋭い指摘で改めて考えてみると確かに物とはなにか、カントが考えていたモノは何か、というのは曖昧だな」
「ごく普通に考えれば」と言いながら彼女の顔を見た。こんな説明じゃとても彼女を満足させられないな、思いながら。「人間以外の物体じゃないかな」
「じゃあ、動物も物なの」
「そうだねえ」と彼は思案顔で用心深く答えた。
その時にエッグヘッドがコメントした。「ドイツ語でDingと単数形でいうと、『もの、物品』という意味だね。複数系にすると、『事、事柄、事態、出来事』とまったく違った意味になる。物自体は単数形のDingだから物品だろうね、これも自然物か机のような人工物まで含むかの問題はあるがね」
なにかに気が付いたように立花は「待てよ」と言いながらテーブルの本を取り上げると「彼の文章にオランダ東インド会社についての文章があるそうだが、この会社は植民地時代の歴史的事柄だから、複数系の意味も含めているんだね」
「誰の著作ですか」
「ハーマンのだ」
「するてえと、彼の解釈では歴史的な事象も社会的な事象もモノなんだ。とにかく、そういう基本的なことは誠実に定義しておいてもらわないと困るね。すこし粗雑すぎる気味があるようだ」