ちょっと褒めすぎたかなと気になったので慌てて補足を入れる。前回坂口安吾のハクチの後半を褒めた。そのあとで彼の他の短編を少し読んだが褒めすぎたのが気になる。そんなにいいなら読んでみるか、と皆様にとられると困る。責任を持てない。あくまでもハクチの後半部分の描写をほめただけである。
あとで若干ほかの短編を読んだがどうも感心しない。といっても全体として坂口安吾を評価するほど読んだわけではない。短編を二つ三つ、それも終いまで読んだわけではない。しかし、それらは彼の作品の中では評判のいい作品あるいは評論らしいのでおおよその判断は間違っていないと思う。
じつは本屋で彼の「有名な」堕落論が載っている文庫本を偶然見つけてあがなったのであった。ちくま「日本文学009坂口安吾」というアンソロジーである。めくってみると堕落論、続堕落論が載っている。前に読んだ記憶はあると前回書いたが、どうしても内容が思い出せない。それでそいつを買ったわけである。
まずこれから行くが、終戦直後世間を震撼させたほどの内容があるのか。ない。天皇制について書いているが、これは美濃部亮吉博士の「天皇機関説」を低俗な文章でなぞったものであり、戦前からよくある説である。日本の農民論もあるが、深みはない。うなるようなキレもない。論拠がない。
次に小説の短編であるが、誤解のないように見た(読んだ)ものを挙げる。
「いずこえ」
「ハクチ」
「金銭無情」これは途中まで
「桜の森の満開の下」途中まで
と言ったところである。
福田恒存だったか、解説でいっていたが、坂口の小説は観念小説と言われるそうである。たしかに、上記の上から三作は冒頭から鬼面人を辟易させる観念(というか観念をキャラだてした登場人物)が出てくる。しかし叙述が進むにつれてその観念的な鬼面人を驚かすような観念が有機的に展開することはない。なんなの、とあっけにとられる。ハクチでも空襲描写はよいが冒頭からの有機的なつながりはない。
これで読者に対する公平性と言う責任は果たしたかな。
付け加えると、金銭無情はいわゆる中間小説なのだろう。最近は中間小説という言葉はきかれなくなったが、純文学作家が小遣い稼ぎに書く通俗小説と言ったところを意味していたようだ。以上現代の読者への注である。