穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ハイデガーとヘーゲルの講義録1

2012-03-31 07:23:09 | 書評

講談社学術文庫に渡辺二郎編「ハイデガー存在と時間入門」というのがある。どうしてこんなものを読むようになったかというと、充足根拠率を現代において精緻化したのがハイデガーという記事を見たので、ハイデガー全集26巻を読んだが、これがひどいものだ。

日本語のせいか、それともハイデガー哲学プロパーに関係するのか。と考えていたものだから書店で目に飛び込んできた該書を買ったわけだ。

創文社のハイデガー全集第26巻は講義録なんだが、これを読んでヘーゲルの講義録と比較した。ヘーゲルの文章が悪文で韜晦していて、翻訳が見識張っていて分かりにくいのは定説であるが、講義録は分かりやすい。

講義録と言うのは学生のメモをもとにして大体作成されるわけだ。ヘーゲルは学生に講義するときには分かりやすく、サービス精神旺盛で、比喩や例示が適切である。つまりメモを取る学生は内容を理解しているということだ。

対して、ハイデガーは講義録でも何をいっているのか、ジャーゴン満載である。女子学生が速記者のようにわけも分からず記した速記録をそのままおこしたもののようである。

それと言うことが品がない。なかでもショーペンハウアーを口汚くののしっている(文字通り)、理由も示さず。論難するというわけでもなく。これはハイデガーの素性にも関係するようだ。

彼はどこかの寒村の教会の堂守の息子と言う。日本で言えば寺男というところだ。かの地においても堂守というのは被差別階級ではないのか。

もっとも、渡辺二郎さんは旨い事をいっていたな、教会の「聖祭器具管理人」だそうだ。なんだが物々しい仕事みたいに聞こえるね。ものは言いようだな。つづく