穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

デカルトの情念論 (7)

2021-10-10 17:16:10 | 読まずに書評しよう

 デカルトの哲学は物心二元論であると言われる。物は物体である、物質である。これは比較的イメージしいやすい。世の中の実体は物質である、というのは唯物論である。きわめて素人分かりがいい。その他に実体として精神があるというのが二元論である。これもなんとなく常識的だ。これを物心二元論というのは誰が訳したのか、物体精神の二元論のほうがより適切だと思のだが、ゴロが悪いのか、座りが悪いのか物心二元論が通り言葉になっている。

 ここに心と言うことばを使うのが気にくわない。第一デカルトは物体の始元的属性は延長であると言っている。そうして「精神」の始元的属性は思惟であるという。あったかい心なんて世間ではいうが思惟に暖かいも冷たいもないだろう。心はより動物的な機能である。もっともデカルトの書いたものを読むと精神も心も魂も霊魂も同列に扱っている。情念論ではこころを思惟として扱っているのか。はなはだ粗雑といわなければならない。

 そうすると千年以上にわたって支配をしてきた「神様」はどうなるのか。二種の実体の上の神棚に鎮座しているのか。どうもそうらしい。「事なかれ主義」が処世術のデカルトは所々で厄除けをするようにキリストにお灯明をあげている。読んでいるほうは面食らう。

 さてうら若いエリザベート王女の詰問にあって物と心の間をつなぐ消火栓じゃない、松果腺なるものを当時の解剖学の知識で脳底に認定した。そこでだ、肉体が死んだら心はどうなるか。大問題である。デカルトはトマス・アキナスがひねり出したのとほぼ同じ解答を出す。肉体が死んでもこころは死なない。世間では死ぬと死体には精神活動が無くなるから心も同時になくなるという。冗談じゃない。魂は肉体を離れるのよ、という。だから無傷でピンピンしている。トマス・アキナスの形而上学序論を参照のこと。日本では神道がほぼ同じ考えである。平田篤胤の「霊の真柱」を参照のこと。

 じゃあ、魂はどこに行くの。いろいろあらあな、ということ。未開社会の多くでは、人類学者のリサーチによると遺族の部屋の天井あたりに張り付いている。デカルトはそこまでサービスしていない。第一死体から離れた精神というかこころは寿命がないのかね。思惟だから死なないのかな。そうすると大変だ、空気中には魂が南氷洋のプランクトンのように密集しているに違いない。いや、天に上ってお星さまになるのかな。それなら何兆光年の三乗いや時間軸を考えれば四乗のゆとりがある。当分満員になる心配はない。

 



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