穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ドストエフスキーのイデー、「白痴」のレーベジェフ

2013-06-26 08:34:18 | 書評
バフチンのドスト論の骨子はポリフォニー、イデー、メニッペア(カーニバル)である。まえにも書いたがポリフォニーというのはうさんくさい(謙虚に言えば私の理解力を越える)。メニッペアはよくわかるし、文学史的な分析は内容がある。

さて、イデーであるがどうもこれもうさんくさい。

またまた『白痴」を例にとるが、レーベジェフという人物がいる。冒頭の列車の中に出てくるが、そこではニキビだらけの中年の小役人風(すぐに小役人と断定的に描写)で出世の見込みはないが、大変な情報通であるとなっている。

その後第三編のムイシュキンの誕生パーテイでは、奇矯ではあるが、なかなかの弁舌を披露する。其の前から「小役人」という言葉はなくなって、弁護士志願で怪しげなマスコミの世界を徘徊する情報屋(今で言えばトップ屋か)ということにいつの間にかなっている。

ま、書き下ろしでもなく、前金にしばられた時間に追われた連載で、ワープロも無かった時代であるから、多少の?齟齬はそのまま押し通したということだろう。

レーベジェフは脇役だが、主役達もとてもイデーの体現者とは思えない。矛盾しているのがイデーだと言えばそれまでだが、それならわざわざイデーという必要はない。

イデーというものは、ドイツの教養小説のように進化発展向上(つまり変化)するものではない。はじめから終わりまで変化しない。そのことはバプチン自身が念を押しているくらいである。

あまり精神病理学の言葉でドストを語りたくないが、彼は矛盾の並立を描く作家であり、それも安っぽいパーソナル・ディスオーダーとか意識、潜在意識の交代という決まりきったパターンではなく、意識から意識へ万華鏡のように変化する人間を描くところに優れているのだ。

これがもっとも顕著に現れるのがドストの女性主役たちで白痴でいうならナスターシャ、アグラーヤなどだ。このタイプはドストがもっとも手のうちに入れたキャラクターである。

罪と罰のソフィアのようなワンパターンの聖娼婦は挿話として登場しても全編を通して主役をはれないのである。