穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ノーベル文学賞と村上春樹

2013-10-12 10:39:59 | 書評

受賞作家の傾向を調べたことはない。もう百年前後つづいているんでしょう。傾向はあるだろう。もっとも選考委員は入れ替わるわけだから、それによっても選考方針は変わるだろう。

いま手元にないからうろ覚えだがたしか産経新聞に業界関係者のコメントを紹介した記事があった。それによると、ノーベル文学賞は純文学に与えられるそうだ。村上の小説は純文学じゃないという意見があるのだな。

何回もこのブログで書いたように村上の小説は、初期作品を除き、ジャンルのごった煮である。ホラー味、サスペンス味、ファンタジー味など。そして上位ジャンルでは純文学とエンタメ味でもごった煮である。おそらく読者マーケット極大化という商品戦略だと思う。

特に最近はエンタメ味が強い、と産経に答えていた人物はいっていた。もちろんファンの反対の声を産経は採録してもいる。ヘミングウェイも娯楽小説を書いたじゃないか、というんだな。珍妙な意見で反論にもなっていない。

ところで外国にも純文学なんて概念があるのかな、シリアス・ノベルとでもいうのかな、と辞書を引いたら「ポライト・ノベル」または「シリアス・ノベル」とある。ポライトってなんじゃらほい。セックス描写がないということかな。いやそうじゃない。小説家というのはシリアスであるか否かにかかわらずセックス・アディクトだからね。そうすると、セックス描写が即物的で露骨でないのが上品ということか。

それならわかる。村上春樹氏は芸がないというか、直接的な表現が多い。

ノーベル賞は高齢な人物に与えられることが多い。自然科学分野でもそうだ。山中教授など例外だ。

とすると作家は円熟期というか晩年の作品まで質を維持していたかどうかが評価のポイントになるのではないか。

これもブログで再三書いたが、村上は「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」が頂点であとは文章もつやをうしない表現は露骨になり、マーケット・オリエンテッドな小説をまるで大量消費商品のように製造している。ノーベル文学賞の選考委員には受け入れられないのではないか。
もっとも来年のことがあるからあまり断定的なことを言うのはやめよう。

このブログで1Q84の書評をしたときに、ノーベル文学賞を狙うなら、1Q84が翻訳される前に獲得を狙うべきだと書いたがね。最新作の「たざきつくる君」はエンタメ色は薄れたが、文章、小説技法の劣化が著しい。来年以降受賞はないと予想するのが妥当だろう。

もし、受賞すれば初期の抒情的小品か「世界の終り・・・」が評価の対象だろう。

もうひとつノーベル賞の選考基準と思われることを記しておこう。これは文学賞に限らないが、その活動が商業的に莫大な利益もたらしてる人物には与える必要がないという基準があるようだ。

平和賞でもいえる。今回前評判の高かったパキスタンの16歳の少女マララさんが受賞をのがした。彼女の活動は全世界的な認知をすでにうけていてノーベル賞でわざわざ後押しするまでもないということではないか。村上春樹の場合と違い、商業的成功を収めているわけではないが、彼女の運動は将来への十分なモメンタムをすでに獲得しているということだ。