カミユの「幸福な死」を75ページほど読んだ。
異邦人に先立つ草稿らしい。生前未発表という。読んでみて完成品とは言えない。
75ページ(新潮文庫で全部で200ページ)まで読んだ感想では、解説にもあるとおり、異邦人の前駆をなすパートが多い。特に叙景である。人物もほぼ異邦人とパレレルで容易に推察出来る。
どうしてこんな本を読んでいるかというのか。読書には端境期というべき時機がある。ちょうど読みたい本もない、書棚を見ても再読しようかなというものがないという時があるもの。そういうときにふとした気迷いから書店で出来心で買ってしまう本がある。これもそういう本だ。
驚いたのはこれが49刷を数えていることだ。結構人気があるらしい。それも一つの理由。
構成、テーマは違うようだ。なんとかいったな、メルソー(マルソー前駆)はドストエフスキー罪と罰のラスコリニコフ風だ。というより、彼が自殺介助をする金持ちの不具者がそそのかす考えがラスコリ風というのかな。
異邦人のマルソーは世間からみると『ニヒリスト』的だが、彼自身は十分すぎるほどの感受性を持っている。持てあました感受性が所かまわず飛び回っている。しかし、世間がこういうときには(母親が死んだときには)こうすべきだという反応をしない、無感動だという。殺人の理由も説明出来ない>(太陽のせいだ)というところが虚無者と採られる訳だ。
幸福な死のメルソーはそんなことはなさそうだ。
とにかく、あれやこれや考えて、取捨して異邦人になったのだろう。たしかに大幅に改善されている。
追加:叙景あるいは日常生活を克明に描写するのがカミユだが、時間の推移のパンクチュエイションにアパートのそばを通る電車の轟音がある。いったいどういうところに棲んでいるのだ。線路のすぐ横にあるらしい。これは異邦人も幸福な死も同じ。
いま思いついたが、サルトルの嘔吐のロカンタンも線路の横に棲んでいたんだね。どっちがどっちを真似たんだろう。サルトルのほうだろうな。
念のために調べたら:サルトルの方が年上なんだな。それで嘔吐が1938年、異邦人が1942年。従って直上の推測は撤回。妙な一致という印象はかわらない。
パロデイ:カミユによると、不条理とは世界にあるらしい。それと理性的に対峙するのが作法だ、とこういうことらしい。それはそれでいいが、不条理とは外界にあるだけではない。たとえば哲学、不条理を内包しない哲学は一つもない。
理性的哲学というものほど、内包する不条理がどうしようもないほど、癌的である。そこを誠実に見つめる、認めることが大切だろう。理性的と青少年のように声高に唱える思想ほど、処置なしに不条理化している。
不条理というのは思想を浄化しようとつとめるほど不純物として結晶として鍋の底に頑固に溜まる。
異邦人に先立つ草稿らしい。生前未発表という。読んでみて完成品とは言えない。
75ページ(新潮文庫で全部で200ページ)まで読んだ感想では、解説にもあるとおり、異邦人の前駆をなすパートが多い。特に叙景である。人物もほぼ異邦人とパレレルで容易に推察出来る。
どうしてこんな本を読んでいるかというのか。読書には端境期というべき時機がある。ちょうど読みたい本もない、書棚を見ても再読しようかなというものがないという時があるもの。そういうときにふとした気迷いから書店で出来心で買ってしまう本がある。これもそういう本だ。
驚いたのはこれが49刷を数えていることだ。結構人気があるらしい。それも一つの理由。
構成、テーマは違うようだ。なんとかいったな、メルソー(マルソー前駆)はドストエフスキー罪と罰のラスコリニコフ風だ。というより、彼が自殺介助をする金持ちの不具者がそそのかす考えがラスコリ風というのかな。
異邦人のマルソーは世間からみると『ニヒリスト』的だが、彼自身は十分すぎるほどの感受性を持っている。持てあました感受性が所かまわず飛び回っている。しかし、世間がこういうときには(母親が死んだときには)こうすべきだという反応をしない、無感動だという。殺人の理由も説明出来ない>(太陽のせいだ)というところが虚無者と採られる訳だ。
幸福な死のメルソーはそんなことはなさそうだ。
とにかく、あれやこれや考えて、取捨して異邦人になったのだろう。たしかに大幅に改善されている。
追加:叙景あるいは日常生活を克明に描写するのがカミユだが、時間の推移のパンクチュエイションにアパートのそばを通る電車の轟音がある。いったいどういうところに棲んでいるのだ。線路のすぐ横にあるらしい。これは異邦人も幸福な死も同じ。
いま思いついたが、サルトルの嘔吐のロカンタンも線路の横に棲んでいたんだね。どっちがどっちを真似たんだろう。サルトルのほうだろうな。
念のために調べたら:サルトルの方が年上なんだな。それで嘔吐が1938年、異邦人が1942年。従って直上の推測は撤回。妙な一致という印象はかわらない。
パロデイ:カミユによると、不条理とは世界にあるらしい。それと理性的に対峙するのが作法だ、とこういうことらしい。それはそれでいいが、不条理とは外界にあるだけではない。たとえば哲学、不条理を内包しない哲学は一つもない。
理性的哲学というものほど、内包する不条理がどうしようもないほど、癌的である。そこを誠実に見つめる、認めることが大切だろう。理性的と青少年のように声高に唱える思想ほど、処置なしに不条理化している。
不条理というのは思想を浄化しようとつとめるほど不純物として結晶として鍋の底に頑固に溜まる。