ここまでの事情を勘案すれば,船旅に出た6人の一行が,マストの故障によって滞在せざるを得なかった村で,村人を集めて『蛙Βάτραχοι』の上演を行ったというプロットは,あり得そうもないプロットであるけれど,史実であったとしてもおかしくないようになっていることが理解できると思います。もちろん史実としておかしくないようなプロットは,ヘンドリックHendrik Wilem van Loonが挿入するのに相応しいプロットであると僕はいいましたが,このプロットが不自然ではないということは,少なくともスピノザがファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenのラテン語学校で演劇を学び,かつ演者として有料の観客の前で演じたことがあり,もしかしたら演出の助手をしていたかもしれないということを知っていなければいえないことであり,スピノザではなくレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnを主題にして創作したとされるヘンドリック,つまりスピノザよりもレンブラントに多大なる関心を寄せていたであろうヘンドリックがそれを知っていたというのは無理があると思います。一方で,レンブラントに大きな関心を寄せていた筈のヘンドリックが,ストーリー全体のプロットとしては不要であるともいえるスピノザが主人公のプロットを書くために,スピノザのことをそこまで詳しく調べるということもないでしょう。それでもこのような,史実でもあり得るようなプロットが挿入されているのは偶然ではないと僕は考えますので,ヘンドリックがスピノザに関連する何らかの資料にもあたっているのは間違いなく,その資料とはファン・ローンJoanis van Loonが書き残したものにほかならないだろうと僕は結論します。そうであったから,ヘンドリックは自身の9代前の先祖が書いたものを訳したという体裁で,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』を刊行したのだと思うのです。
ただし気を付けてほしいのは,僕は確かにファン・ローンは何かを書き残していたとは思うのですが,それが『レンブラントの生涯と時代』のような,はっきりとまとまったものであったとはいえないとも思うということです。前述したように,ローンは1670年4月3日付で,効き目が現れた,つまり自身の鬱状態の改善がみられるようになったという意味のことを書いています。
スピノザがファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenのラテン語学校でラテン語を学んでいたこと,そしてある程度までラテン語に習熟した後は助手的な役割を務めていたことは,おそらく史実です。そしてこのラテン語学校の授業に演劇があったということは確定的な史実です。だからといってそこで『蛙Βάτραχοι』が教材として用いられ,スピノザがそれを演じたことがあると確定することができるわけではありません。よって『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』で書かれていることが史実であり得たということを,このことだけでいうことはできません。もっと重要な史実があります。
ファン・デン・エンデンは,単に演劇を授業に取り入れていたというだけでなく,その演劇を生徒たちに上演させていました。ここでいう上演というのは,授業中に演じるとか,生徒たちの保護者にそれを見せるという意味ではなく,一般の観客から金を取って上演していたという意味です。つまり演劇は単に授業内容のひとつだったわけではなく,本格的な稽古を積んで,客に見せるためのものだったのです。そしてそうした公演の中にテレンティウスPublius Terentius Aferの劇作があり,その上演にスピノザが参加していたことはかなり確実だと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』に書かれています。つまりスピノザが,ファン・デン・エンデンのラテン語学校の生徒のひとりとして,興行としての演劇に参加していたことは,史実としてかなり確定的にいえることです。
こうした演劇のためには,単に台本があるだけでは十分ではなく,演出が必要不可欠であるということは間違いないでしょう。おそらくその演出もまたファン・デン・エンデンがしていたと思われますが,演者として舞台を踏んでいたスピノザは,舞台演劇の演出がいかなるものであるのかということを,内部の人間として知っていたということは確実視することができます。さらにいえば,ナドラーSteven Nadlerがいうように,スピノザがエンデンの助手的な役割を果たしていたのだとすれば,ある時には演出の手伝いをしたことがあったとしてもおかしくありません。そしてそうであればなおのこと,スピノザは舞台演出がいかなるものであるのかということを,より知ることができたでしょう。
『蛙Βάτραχοι』のプロットは大筋を簡潔に紹介しただけなので,ここからは詳しくみていきます。
時期が特定されていませんが,ファン・ローンJoanis van LoonがコンスタンティンConstantijin Huygensの別荘で襲われた病気から恢復した直後とされています。レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが死んだのは1669年10月4日です。ここでいわれている病気は,レンブラントの死後のローンの鬱状態のことを指すのは間違いありません。ローンはスピノザのアドバイスでレンブラントとのことを書いた設定で,1670年4月に効果が現れたという主旨のことを書いていますので,1670年になってから,たぶん4月か5月ではなかったかと想定されます。スピノザがレインスブルフRijnsburgからフォールブルフVoorburgに移住したのは1663年で,フォールブルフからハーグDen Haagに移住したのは遅くとも1670年の初めです。ですからコンスタンティンとスピノザはすでに知己になっていたのは間違いありません。ただスピノザはこの時点ではフォールブルフに住んでいたわけではないと想定されます。ただしフォールブルフとハーグは隣接しているので,それほど遠いわけではないです。
コンスタンティンの提案で,ファン・ローンに気晴らしをさせるために,船旅をしたことになっています。全体のプロットは,コンスタンティンがファン・ローンの身を案じてスピノザに会うように助言したことになっていますから,コンスタンティンがそう提案をすること自体は,ストーリーの全体の中で不自然ではありません。目的地はホウダGoudaという町であったとされています。この町は水運で栄えた町とされていますので,そこへ船旅をするというのも不自然な設定であるとは思えないです。一行は6人となっていて,これはコンスタンティン,ファン・ローン,スピノザを含めていると思われますので,ほかに3人が乗船していたということでしょう。前にもいったように,この船旅の時期にはスピノザはフォールブルフには住んでいなかったと思われるのですが,ファン・ローンの気晴らしのための旅にコンスタンティガスピノザを招待するのは不自然ではなく,ハーグとフォールブルフも遠くはないので,スピノザが受けることも可能ではあったでしょう。
ふたつ目は1642年の秋の出来事です。ひとつ目よりも前の出来事ですが,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』では後に書かれている,というか後に訳出されているので,この順番になっています。 ファン・ローンJoanis van Loonが帰宅すると,レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnからの書付がありました。これはよく意味が分からないのですが,たぶんレンブラントがローンの家を訪ねたら,ローンは不在で家人がいたので,その家人にローン宛のメモを渡しておいたという意味ではないかと思います。そのメモの内容は,ローンと友人に,次の木曜日の夜に立ち寄ってほしいというものでした。見せたい絵があると書かれていますが,実際はこの後でアメリカに行く予定になっていたローンの送別会を開くのが主目的です。
その日の夜の9時になってからローンは立ち寄りました。これはアントニー・ブレーストラートの家となっていて,これは地名を表しています。レンブラントの家はそこにあったのです。その場にメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがいたのです。レンブラントはメナセのエッチングを制作したことがあって,知己の間柄でした。ローンはメナセの話をレンブラントから聞いてはいたようですが,このときが初対面であったと読めるようになっています。
ローンがアメリカに行くことを知ったメナセとの間でアメリカの話になるのですが,イスラエル民族の行方不明になった種族が,太平洋がまだ陸地だった時代にそこを渡って今日のアメリカの土地に住んでいるので,自分もできればローンのようにアメリカに行きたいのだけれども,神の民すなわちユダヤ人が荒野から出る時節にはまだなっていないので,行くことはできないという主旨のことを言いました。
もちろんメナセは真面目にこのように言った,つまり真剣にそう信じてそう言っているのであり,そのことが理解できるように,つまりその場にいた人びとにも,読者にも理解できる書き方になっています。ローンはそれが妄想であると分かったけれども,どんな人間にもひとつくらいは妄想を大事にする権利があるのだし,社会で有用な一員となるためには一点で狂っていなければならないから,何も言わなかったとしています。
コンスタンティンConstantijin Huygensがファン・ローンJoanis van Loonにスピノザを紹介したという『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の設定は,不自然ではありません。しかしこのことは,これが創作ではないということを保証するものではありません。むしろ自然な設定であるがゆえに,創作することも可能だといわなければなりません。むしろ創作としてはあまりに不自然であると思われることが含まれている場合に,それが純粋な創作であるとは疑わしいということができるのです。ただ,僕がここでこの例を先に示しておいたのは,この作品の中には確かに設定としてごく自然と思われる事柄も含まれているということをいっておきたかったからです。純粋な創作としては不自然と思われる部分についても後に説明しますが,『レンブラントの生涯と時代』はそういう部分だけで構成されているわけではありません。
それから,この作品が生まれる契機となったのがスピノザだったという設定になっていますから,その中にスピノザに関わるようなことも書かれることになったのですが,あくまでも主題がレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnにあるということは前にもいったとおりです。したがって,吉田がいっているように,これがヘンドリックHendrik Wilem van Loonの創作であるとしたら,ヘンドリックはレンブラントについて書きたかったということになり,スピノザについて書きたかったわけではないということになります。いい換えればヘンドリックはレンブラントには関心があったけれども,スピノザに対しては,少なくともレンブラントほどには強い関心をもっていなかったということです。もしもスピノザのことを書きたかったのならそれを主題にすればよいのであって,わざわざレンブラントを主人公に据える必要はありませんから,これは当然のことだといえます。
したがって,この作品がどの程度まで歴史に準じているのかということ,いい換えれば史実として参考になる資料があるのか否かということは,第一にはレンブラントについて書かれている部分を読んで,それがすでに知られているレンブラントの人生の歴史にどれほど適合しているのかということをみなければなりません。しかし『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』は抄訳なのです。
スピノザとウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaの間に本当に面識があったかどうかは分かりません。ただ,仮に会ったことがなかった場合でも,ダ・コスタはスピノザのことを知らかったとしても,スピノザがダ・コスタを知らなかったということはあり得ないでしょう。もちろんそれは,単にダ・コスタという人間がいたということを知っていたということではなくて,ダ・コスタがかつて破門宣告を受け,その宣告を解いてもらうために屈辱的な儀式を行った後で,自殺をした人間であるということを知っていたという意味です。 ファン・ローンJoanis van Loonの『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の中に,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがスピノザに対して,第二のアコスタになるのかと怒鳴りつける場面があります。これに対してスピノザは,ウリエルの後を追うつもりはないと答えています。この部分は実際にあった出来事であるとはいえない面があるのですが,ファン・ローンがこのように記しているということは,スピノザがダ・コスタのこと,とくに末路を知っていたことを前提しているからです。いい換えれば,スピノザがダ・コスタのことを知っているということは,当然視されていることになります。
スピノザが死んだとき,呪詛されるべきスピノザの死をアムステルダムAmsterdamのユダヤ人のだれかが知ったとしたら,それは瞬く間にその共同体の中に広まったであろうから,レベッカRebecca de SpinozaやダニエルDaniel Carcerisもそのことを知ったであろうと僕はいいました。これはアムステルダムのユダヤ人共同体というのがそれほど大きな共同体ではなかったがゆえのことです。だからこのことはダ・コスタの破門や自殺についても同じことがいえるのであって,このことはアムステルダムのユダヤ人共同体に住んでいた人なら,だれでも知っていたであろう出来事だと解するのが適切です。なのでたとえスピノザとダ・コスタの間には面識はなかったとしても,スピノザがダ・コスタのことを何も知らなかったということはあり得ないというべきでしょう。
さらにいうと,このことは単にアムステルダムのユダヤ人共同体に住んでいた人だけに周知の出来事だったというわけではなく,オランダ人にもおそらく同様でした。
老いた鶏のスープを食べさせることが,医療行為であるのかどうか分かりません。もしこれが医療行為であったとしたら,スペイクはその指示によってアムステルダムAmsterdamから来たその人が医師であったと理解したでしょう。しかしそうでなかった可能性もあるわけですから,このことでスペイクがアムステルダムから来た人物を医師であると特定できたと断定できるわけではありません。
この人物は,スピノザが死んだときに,スペイクの家にふたりきりでいました。だからスピノザが死んだということを判定したことになります。こうした判断が医師にしかできなかったとすれば,アムステルダムから来た人物は間違いなく医師だったことになります。ただ,人が死んだかどうかということだけの判断であれば,これはだれにでもできるといえます。実際に僕の父が死んだときも僕の母が死んだときも僕は枕元にいましたが,死んだのではないかと思ったから看護師を呼んだのであり,確かに僕には父も母も死んだということが分かったのです。ただ僕が看護師を呼んだのは,その最終判定が医師に任されているからであり,僕が呼んだ看護師も,確かに死んでいると判断し,さらに医師を呼んで最終的な判断をしてもらったのです。したがって,もしこの時代にも死亡診断書のような書類があって,その診断書を出すことができるのが医師免許を持っている人に限定されていたのであれば,スピノザの死亡診断書を書いたのはこのアムステルダムから来た人物にほかならないでしょうから,この人物は確かに医師であったと断定することができます。よって当時の状況がこのようなものであれば,アムステルダムから来たのはシュラーGeorg Hermann Schullerであったことになり,マイエルLodewijk Meyerであったことにはなりません。しかし当時の状況が分からないので,このようにはいえないのです。したがって,アムステルダムから来た人物が医師であるとコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaに書かれているからといって,それをシュラーであったとする材料にはならないのではないかと僕は思います。医師ではなかったマイエルが来た場合であっても,スペイクはマイエルを医師であると間違える可能性を否定することができないからです。
僕はこのような状況から考えると,遺稿集Opera Posthumaの編集者の総意としてスピノザの遺稿の売却が考えられていたわけではなく,シュラーGeorg Hermann Schullerが独断でライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して遺稿の買取りを打診したのではないかと思います。他面からいえば,ほかの編集者たちは考えを改めて遺稿集の出版を決断したわけではなくて,その遺稿を入手した以上は出版するために当初から奔走していたのではないかと思います。
『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』に関連した部分はこれだけです。次に『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の当該部分をみておきます。
すでにいっておいたように,ナドラーSteven Nadlerはスピノザの死を看取った医師はマイエルLodewijk Meyerであったと解しています。ただし,シュラー説も紹介されていて,その可能性を否定していません。これはフロイデンタールJacob Freudenthalが実際にはシュラーであったとするときにも同様なのですが,この人がアムステルダムAmsterdamから来た医師であったということが理由のひとつとされています。マイエルは医師ではないけれどもシュラーは医師であったので,アムステルダムから来たのが医師であったとするなら,それはマイエルではなくシュラーであったとする見方です。
僕はそれが本当に理由になるのかということは疑問に感じる部分もあります。すでにいっておいたように,もしもスペイクがシュラーが来たのにマイエルが来たと勘違いするなら,スペイクはシュラーともマイエルとも面識がなかったとしなければなりません。なのでシュラーなりマイエルなりが来たときに,その人が医師であるのか医師ではないのかということをスペイクが知ることができるのかということに疑問を感じるからです。スペイクが,実際にはシュラーが来たのにマイエルが来たと間違える場合の例をすでに示しましたが,それと同じように,スピノザからは医師が来ると伝えられていたけれどもマイエルが来たという場合には,スペイクはマイエルのことを医師と思い込むということがあり得るからです。実際にこのアムステルダムから来た医師と記述されている人がなしたと書かれているのは,老いた鶏のスープを作らせてスピノザに食させたことと,スピノザの死後に机の上の金品を持ち帰ってしまったことだけです。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの当該部分から僕が理解できることはここまで記してきた通りです。そしてその中に数々の疑問点があるということは分かってもらえたと思います。それは解決可能なものではありません。ただこの部分に関して,ほかの伝記の中により詳しい記述がありますから,それもみておくことにしましょう。 フロイデンタールJacob Freudenthalの『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』では,スピノザの葬儀に出席した人物が書かれています。フッデJohann Hudde,イエレスJarig Jelles,リューウェルツJan Rieuwertsz,マイエルLodewijk Meyerは確かに出席したとされていますが,出席したであろうという書き方ですので,確証があるわけではないかもしれません。一方,シュラーGeorg Hermann Schullerは出席していなかったとされていて,それはシュラーがこの葬儀の翌日,すなわち1677年2月26日にはアムステルダムAmsterdamにいて,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに手紙を書いていることが根拠とされています。葬儀および埋葬にどれほどの時間を要し,それが何時に終わったのかということが定かではないので,前日にハーグDen Haagで葬儀に出席したシュラーが,翌日にアムステルダムで手紙を書くということが本当に不可能なのかどうか僕には分かりません。また,フロイデンタールはスピノザの臨終を見守ったのがシュラーであると考えていて,この人はコレルスの伝記によれば臨終の日のうちにアムステルダムに帰ってしまい,そのままスピノザを顧みることはなかったとされています。それはつまり葬儀および埋葬には顔を出さなかったということを意味するのであって,マイエルが出席しシュラーが出席しなかったということは,コレルスの伝記が意味するところがスピノザの臨終を見守ったのがシュラーであったということと辻褄が合います。むしろこちらの考え方から,フロイデンタールはマイエルは出席したけれどもシュラーは出席しなかったといっているのかもしれませんから,この部分のフロイデンタールの記述は,そのまま信用するには値しないかもしれません。
スピノザが死んだのが2月21日で,埋葬が25日になった理由について,これは葬儀費用の問題であったというようにフロイデンタールはいっています。要するにだれがそれを支払うかが決まらなかったということです。
スペイクはスピノザの葬儀には名士が参列したとコレルスJohannes Colerusに証言したので,コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにはそう書いてあります。前にもいったように,この点に関してはスペイクにも誇張できない理由がありましたから,この点はそんなに疑う必要はないと思われます。そこでスペイクの証言を信頼するなら,多数の名士がその葬儀に出席するようなスピノザの死は,オランダにおいてそれなりの話題に上っていたかもしれません。ですから,たとえイエレスJarig Jellesのような,面識があったであろうスピノザの友人から報知されなくても,レベッカRebecca de SpinozaやダニエルDaniel Carcerisがスピノザの死を,死の当日から時間をおかずに知り得た可能性も高そうです。
スピノザはアムステルダムAmsterdamのユダヤ教会から破門された人物です。つまりアムステルダムで共同体を構成しているユダヤ人にとっては忌み嫌う存在でした。ですからそのスピノザが死んだということは,アムステルダムのユダヤ人たちにとっては喜ぶべき事柄です。なのでスピノザが死んだことがアムステルダムのユダヤ人たちの知るところとなったとしたら,それほど大きな共同体ではないのですから,共同体を構成しているすべてのユダヤ人がそれを知ったことでしょう。ですからこういう経路でレベッカやダニエルがスピノザが死んだということを知ったということも大いにあり得るでしょう。その場合はレベッカが自力でスピノザがどこで死んだかを調べて,スペイクに会いに行ったということになります。
なおこの点は,ガブリエルが遺産相続人に名を連ねていないことと関連させて考えることもできます。ガブリエルはスピノザと共に商店を経営していたわけですから,スピノザがユダヤ人共同体から追放されることによって最も多大な迷惑を被った親族であったと推定されます。ですからガブリエルは,たとえ兄に遺産が残されていたとしても,それを相続したいという気持ちになれなかった,より積極的にいえばそんな遺産は相続したくないという気持ちが強かったとしてもおかしくはありません。ですからガブリエルは自ら遺産を相続することを放棄したのであって,その権利のすべてをレベッカとダニエルに譲ったというケースも想定できます。