スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典JBCスプリント&自然状態と自然権

2024-11-05 19:06:33 | 地方競馬
 佐賀競馬場の1400mで争われた昨日の第24回JBCスプリント
 シャマルが逃げて2番手にヘリオスで3番手にイグナイターでしたが,この3頭は雁行するように先行。2馬身差でチカッパとバスラットレオン,その2頭の後ろにマックスとタガノビューティーという並びになり,2馬身差でアラジンバローズ。9番手にテイエムフェロー。3馬身差でホウオウスクラム。2馬身差でパワーブローキング。6馬身差の最後尾にトゥールリー。前半の600mは37秒9の超スローペース。
 3コーナーではシャマル,ヘリオス,イグナイターに向正面で外を進出したタガノビューティーの4頭の併走に。これらの後ろから内へ進路を取ったのがチカッパ。コーナーワークでチカッパが直線の入口では前に出ましたが,4頭の大外を回っていたタガノビューティーが追い上げ,フィニッシュ前に差して優勝。チカッパがハナ差で2着。勝ち馬を追うように伸びたアラジンバローズが1馬身半差の3着。タガノビューティーのすぐ内にいたイグナイターが半馬身差で4着。
 優勝したタガノビューティーは昨年3月のオープン以来の勝利。重賞初勝利での大レース制覇。オープンは3勝していて大レースでも入着があった馬ですが,1400mよりは1600mがよいと思っていた馬なので,この優勝は驚きでした。2021年からずっと同じくらいの能力を維持し続けている馬で,その点は称賛に値すると思います。このレースは超スローペースだったのですが,そのために併走が長く続き,前の馬が消耗してしまいました。先行勢はもう少し早いペースでにした方がよかったのではないでしょうか。母の父はスペシャルウィーク
 騎乗した石橋脩騎手は2017年の阪神ジュベナイルフィリーズ以来の大レース3勝目。JBCスプリントは初勝利。管理している西園正都調教師は2018年のヴィクトリアマイル以来の大レース6勝目。JBCスプリントは初勝利。

 ホッブズThomas Hobbesがいう自然状態status naturalisというのは,万人の万人に対する戦争状態といわれる状態です。この状態にあるとき,現実的に存在する人間は,各々が思うがままに,スピノザの哲学の考え方で説明すれば,自己の有esseに固執するperseverareことになります。この自己の有に固執する力potentiaを,ホッブズは自然権jus naturaeとして規定すると理解しておくのがここではよいでしょう。
                            
 各人が思うがままに自然権を行使すると,ある人間の自然権とそれとは別の人間の自然権がぶつかり合うことになります。このために各人は自己の有に固執しようとするのですが,各人がそれぞれにその力を行使すると,かえって自己の有に固執することが難しくなってしまうとホッブズは考えるのです。だから自然状態が,万人の万人に対する戦争状態といわれることになるわけです。しかし,本来は各人は自己の有を維持しようとするのですから,自然状態は各人にとって好ましい状態であるとはいえません。このために各人は社会契約を締結して,安全に自己の有に固執することができるようにするというのが,ホッブズの社会契約説の基本的な原理です。各人が安全に自己の有に固執するということは,各人が自己の有に固執することによって他者を危険に晒すことがないようにするという意味です。そしてその自然状態において各人が自己の有に固執する権利のことをホッブズは自然権といっているわけですから,社会契約説の基本は,各人がその自然権を契約によって譲渡するあるいは廃棄するというようなことを意味することになります。このように規定される自然権を譲渡したり廃棄したりすることができるのかということ自体は疑問で,そのことは『スピノザー読む人の肖像』でも検討したことですが,ここではその点について深く追及はしません。ただ,ホッブズにおける自然権というのは,まず自然状態というものが規定されることによって発生してくる概念notioであって,もしもそのような状態がなかったりそれを考えたりしないのであれば,あることも考えることもできないような権利であるということが重要で,さらにこの権利は,社会契約説によって廃棄されることを前提としたような権利であるということも重要です。
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農林水産大臣賞典JBCレディスクラシック&順序

2024-11-04 18:16:54 | 地方競馬
 佐賀競馬場の1860mで争われた第14回JBCレディスクラシック
 大外からアンモシエラの逃げ。2番手にライオットガールとアイコンテーラー。4番手にアンティキティラで5番手にグランブリッジ。2馬身差でコスモポポラリタとテンカジョウとキャリックアリード。3馬身差でドライゼ。3馬身差でミヤノウッドリー。最後尾にリネンファッションという隊列で発馬後の向正面を通過。正面に入って一旦は馬群が凝縮したのですが,逃げたアンモシエラがまた差を広げにかかり,2周目の向正面に入ったところでリードが3馬身くらいに。アイコンテーラーが単独の2番手となり3番手にライオットガール。併走になったグランブリッジとテンカジョウの4頭が2番手集団という形に。スローペースでした。
 アンモシエラはさらに飛ばして3コーナーで4馬身くらいのリード。2番手集団は差を詰められず,直線に入ったところでセーフティリード。そのまま鮮やかに逃げ切ったアンモシエラの優勝。2番手集団から一番内を回ったグランブリッジが直線の入口で2番手に上がり,フィニッシュまでその位置を死守して4馬身差の2着。外を回ったテンカジョウがアタマ差の3着で,2頭の間のライオットガールが4分の3馬身差で4着。
 優勝したアンモシエラブルーバードカップ以来の勝利。重賞2勝目で大レース初制覇。前走は4着に負けていましたが,それが古馬との初対戦。ダート競馬は古馬との初対戦を克服するのは難しい面があり,2戦目となるここは上積みが見込めました。鮮やかな勝ち方になったのは楽にマイペースで逃げることができたという展開面の恩恵が大であったと思いますが,グランブリッジにこれだけの差をつけて勝ったのは評価できるところでしょう。ただマークがもっときつくなったら厳しくなるというケースも想定しておかなければなりません。母の父がゴールドアリュールで祖母の父がタニノギムレット。祖母の17歳上の半姉がトゥザヴィクトリー。Ammothyellaはギリシャ語で砂嵐。
 騎乗した横山武史騎手は昨年の皐月賞以来となる大レース7勝目。JBCレディスクラシックは初勝利。管理している松永幹夫調教師は2020年のエリザベス女王杯以来の大レース8勝目。JBCレディスクラシックは初勝利。

 この部分は自然権jus naturaeあるいは社会契約に関する考察です。
 スピノザの哲学あるいは政治論における自然権について考察するとき,ホッブズThomas Hobbesの自然権との比較は欠かすことができません。スピノザは『リヴァイアサンLeviathan』を読んでいましたし,スピノザが自然権という概念notioに着目したこと自体がホッブズの影響下にあったということさえできるからです。ただスピノザは,ホッブズがいう自然権という概念には満足することができませんでした。だから同じ自然権という概念をスピノザは自身の哲学および政治論に導入するのですが,スピノザがいう自然権とホッブズがいう自然権とはその内実が異なるのであって,スピノザにおける自然権は,いわばホッブズにおける自然権の修正とみることができるのです。
                            
 ホッブズとスピノザは同時代人なのですから,やはり同時代人にとってもこれは重要なことだったといえます。だからイエレスJarig Jellesはホッブズがいう自然権とスピノザがいう自然権はどのように違うのかということをスピノザに尋ね,スピノザはその質問に書簡五十で答えているのです。つまりこの時代というのは自然権という概念それ自体の黎明期というべき時代なのであって,そうした思想史あるいは政治学史的な観点からも,ホッブズとスピノザの自然権の相違を検討することは重要なのです。
 吉田がいっているのは,書簡五十でスピノザ自身が示しているように,ホッブズがいう自然権とスピノザがいう自然権との間には相違があるのだけれども,そのような内実の相違をいう前に,ふたりの間には自然権を概念として組み立てていくときの順序にそもそも相違があるということです。ここではまずそれをみておきましょう。
 ホッブスは社会契約を説明するために,自然状態status naturalisというのを規定します。これは実際に人類の歴史上で存在した状態と解してもいいですし,社会契約を説明するための概念上の状態,いわば理性の有entia rationisであると解しても構いません。僕はこのような状態が人類史上に現実的に存在したというのは無理があると思いますが,どちらに解してもここでの考察には影響しません。重要なのはその自然状態からホッブズが自然権を規定するということです。
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農林水産大臣賞典報知新聞社杯エーデルワイス賞&結論

2024-11-01 19:21:29 | 地方競馬
 昨晩の第27回エーデルワイス賞。イイデマイヒメが出走取消となって12頭。
 好発だったハーフブルーがそのまま逃げてすぐに2馬身ほどのリード。2番手はアーデルリーベ,エターナルウインド,ワンダーウーマンの3頭。5番手にミリアッドラヴで6番手のラインパシオンまでが先行集団。2馬身差でシルバーミラージュとエイシンマジョリカとレディーティアラの3頭。10番手にイッシンフラン。11番手にトレヴェナ。最後尾にパトリオットゲーム。前半の600mは34秒5の超ハイペース。
 ハーフブルーは緩めずに飛ばしていったので3コーナーでリードは4馬身。アーデルリーベが単独の2番手になり,ミリアッドラヴが3番手まで上昇。ハーフブルーは先頭のまま直線に向かいましたがさすがに一杯。ミリアッドラヴが自然な形で先頭に立つとそのまま抜け出して快勝。2着争いはミリアッドラヴに遅れをとったアーデルリーベと中団から差し込んできたエイシンマジョリカの争い。外のエイシンマジョリカが差して2馬身半差の2着。アーデルリーベが4分の3馬身差で3着。
 優勝したミリアッドラヴは重賞初制覇。前走で新馬を勝ったばかりで,連勝となりました。新馬戦は着差は半馬身差だったもののタイムは非常に優秀。2着馬と3着馬の間には2秒2もの差がつくレースでした。キャリアが不足していたのは不安材料でしたが,1頭が飛ばしたこともあり馬群が密集するようなレースにならなかったことで,その懸念は解消されました。明らかにスピードタイプと思えますので,距離の延長がプラスに働くようには思えないです。母の父がスマートファルコン。母のふたつ上の半姉に2017年のTCK女王盃エンプレス杯を勝ったワンミリオンス。Myriadは無数の。
 騎乗した西村淳也騎手と管理している新谷功一調教師はエーデルワイス賞初勝利。

 ここまでの事情を勘案すれば,船旅に出た6人の一行が,マストの故障によって滞在せざるを得なかった村で,村人を集めて『Βάτραχοι』の上演を行ったというプロットは,あり得そうもないプロットであるけれど,史実であったとしてもおかしくないようになっていることが理解できると思います。もちろん史実としておかしくないようなプロットは,ヘンドリックHendrik Wilem van Loonが挿入するのに相応しいプロットであると僕はいいましたが,このプロットが不自然ではないということは,少なくともスピノザがファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenのラテン語学校で演劇を学び,かつ演者として有料の観客の前で演じたことがあり,もしかしたら演出の助手をしていたかもしれないということを知っていなければいえないことであり,スピノザではなくレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnを主題にして創作したとされるヘンドリック,つまりスピノザよりもレンブラントに多大なる関心を寄せていたであろうヘンドリックがそれを知っていたというのは無理があると思います。一方で,レンブラントに大きな関心を寄せていた筈のヘンドリックが,ストーリー全体のプロットとしては不要であるともいえるスピノザが主人公のプロットを書くために,スピノザのことをそこまで詳しく調べるということもないでしょう。それでもこのような,史実でもあり得るようなプロットが挿入されているのは偶然ではないと僕は考えますので,ヘンドリックがスピノザに関連する何らかの資料にもあたっているのは間違いなく,その資料とはファン・ローンJoanis van Loonが書き残したものにほかならないだろうと僕は結論します。そうであったから,ヘンドリックは自身の9代前の先祖が書いたものを訳したという体裁で,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』を刊行したのだと思うのです。
                            
 ただし気を付けてほしいのは,僕は確かにファン・ローンは何かを書き残していたとは思うのですが,それが『レンブラントの生涯と時代』のような,はっきりとまとまったものであったとはいえないとも思うということです。前述したように,ローンは1670年4月3日付で,効き目が現れた,つまり自身の鬱状態の改善がみられるようになったという意味のことを書いています。
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農林水産大臣賞典平和賞&舞台経験

2024-10-31 19:03:18 | 地方競馬
 北海道から2頭が遠征してきた昨晩の第70回平和賞
 逃げたのはハセノブライアン。向正面に入って2馬身くらいのリードになりました。2番手にガバナビリティーで2馬身差でアッカーマン。2馬身差でオニアシとウィルオレオールとキングミニスター。3馬身差でプレミアムハンド。2馬身差でプローラーティオー。レッドサラマンダーは8馬身ほど遅れました。頭数のわりに縦長の隊列でしたが前半の800mは51秒4のミドルペース。
 3コーナーではハセノブライアンのリードは1馬身くらいに。ガバナビリティーとアッカーマンの差も縮まり,ウィルオレオールとキングミニスターまでの5頭が集団に。直線の入口ではガバナビリティーが先頭に。それを外からアッカーマンとウィルオレオールが追い,大外からプレミアムハンドの追い込み。直線先頭のガバナビリティーをフィニッシュ前にウィルオレオールが差し切って優勝。ガバナビリティーがクビ差で2着。大外のプレミアムハンドが5馬身差で3着。アッカーマンが1馬身差の4着で最内から脚を伸ばしたオニアシがアタマ差で5着。
 優勝した北海道のウィルオレオールはここまで2勝。栄冠賞で2着があり,例年通りなら優勝候補になる馬。距離も前走でこなしていましたから,順当な優勝といっていいと思います。2着馬を差すのに苦労した感はありますが,見た目ほどペースが速くなかったことと,重馬場で前の馬がやや有利だったことが影響したからだと思います。父は2019年にデイリー杯2歳ステークスを勝ったレッドベルジュールでその父がディープインパクト。母の父がフサイチコンコルドで祖母の父がグラスワンダー。母の従弟に2021年のゴールドジュニアを勝ったママママカロニ。Aureoleは後光。
 騎乗した北海道の石川倭騎手は南関東重賞は初勝利。管理している北海道の小国博行調教師は南関東重賞2勝目。第68回以来2年ぶりの平和賞2勝目。

 スピノザがファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenのラテン語学校でラテン語を学んでいたこと,そしてある程度までラテン語に習熟した後は助手的な役割を務めていたことは,おそらく史実です。そしてこのラテン語学校の授業に演劇があったということは確定的な史実です。だからといってそこで『Βάτραχοι』が教材として用いられ,スピノザがそれを演じたことがあると確定することができるわけではありません。よって『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』で書かれていることが史実であり得たということを,このことだけでいうことはできません。もっと重要な史実があります。
                            
 ファン・デン・エンデンは,単に演劇を授業に取り入れていたというだけでなく,その演劇を生徒たちに上演させていました。ここでいう上演というのは,授業中に演じるとか,生徒たちの保護者にそれを見せるという意味ではなく,一般の観客から金を取って上演していたという意味です。つまり演劇は単に授業内容のひとつだったわけではなく,本格的な稽古を積んで,客に見せるためのものだったのです。そしてそうした公演の中にテレンティウスPublius Terentius Aferの劇作があり,その上演にスピノザが参加していたことはかなり確実だと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』に書かれています。つまりスピノザが,ファン・デン・エンデンのラテン語学校の生徒のひとりとして,興行としての演劇に参加していたことは,史実としてかなり確定的にいえることです。
 こうした演劇のためには,単に台本があるだけでは十分ではなく,演出が必要不可欠であるということは間違いないでしょう。おそらくその演出もまたファン・デン・エンデンがしていたと思われますが,演者として舞台を踏んでいたスピノザは,舞台演劇の演出がいかなるものであるのかということを,内部の人間として知っていたということは確実視することができます。さらにいえば,ナドラーSteven Nadlerがいうように,スピノザがエンデンの助手的な役割を果たしていたのだとすれば,ある時には演出の手伝いをしたことがあったとしてもおかしくありません。そしてそうであればなおのこと,スピノザは舞台演出がいかなるものであるのかということを,より知ることができたでしょう。
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埼玉新聞杯埼玉新聞栄冠賞&船旅

2024-10-23 18:54:17 | 地方競馬
 第34回埼玉新聞栄冠賞。御神本騎手が体調不良でデスティネはライアン・クアトロ騎手に変更。
 ナニハサテオキは発馬のタイミングが合わず1馬身の不利。ヒーローコールが前に出てカイル,ラッキードリームの順。2馬身差でパワーブローキングとユアヒストリーとアイブランコ。ナニハサテオキがその後ろまで巻き返し,デスティネ,ホウオウトゥルース,ゴールドハイアーの順で発馬後の向正面を通過。ナニハサテオキはそのまま上昇していき,正面ではヒーローコール,カイル,ナニハサテオキが並び2列目にラッキードリームとアイブランコとデスティネ。3列目にパワーブローキングとユアヒストリー。ゴールドハイアーが9番手に上がり少し離れた最後尾にホウオウトゥルースとなりました。前半の1000mは65秒6のスローペース。
 2周目の向正面で前の3頭が4番手以下に2馬身くらいの差をつけました。3コーナーで外からナニハサテオキが前に出たところでカイルは後退。ヒーローコールが内からまた巻き返していきましたが,直線の入口でまたナニハサテオキが前に出て,そのまま抜け出して優勝。ヒーローコールが直線で一杯になったので早めに追い上げてきたユアヒストリーが差し込んで2馬身半差の2着。一旦は位置を下げ,後から追い上げてきたパワーブローキングがさらに外から伸びて半馬身差の3着。ヒーローコールは1馬身差で4着。
 優勝したナニハサテオキフリオーソレジェンドカップ以来の勝利で南関東重賞2勝目。その後の日本テレビ盃でも4着に健闘していましたのでこのメンバーでは大本命。発馬で不利がありましたが,ペースが緩かったのでそれほど無理なく前につけることができました。逃げたヒーローコールも力はある馬ですが,それを競り潰す形でしたので,内容も文句なしだったと思います。まだ5歳ですから,しばらくは大崩れなく走れるのではないでしょうか。父はジャングルポケット
 騎乗した船橋の森泰斗騎手はフリオーソレジェンドカップ以来の南関東重賞63勝目。第23回,28回に続く6年ぶりの埼玉新聞栄冠賞3勝目。管理している浦和の平山真希調教師は南関東重賞3勝目。埼玉新聞栄冠賞は初勝利。

 『Βάτραχοι』のプロットは大筋を簡潔に紹介しただけなので,ここからは詳しくみていきます。
                            
 時期が特定されていませんが,ファン・ローンJoanis van LoonがコンスタンティンConstantijin Huygensの別荘で襲われた病気から恢復した直後とされています。レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが死んだのは1669年10月4日です。ここでいわれている病気は,レンブラントの死後のローンの鬱状態のことを指すのは間違いありません。ローンはスピノザのアドバイスでレンブラントとのことを書いた設定で,1670年4月に効果が現れたという主旨のことを書いていますので,1670年になってから,たぶん4月か5月ではなかったかと想定されます。スピノザがレインスブルフRijnsburgからフォールブルフVoorburgに移住したのは1663年で,フォールブルフからハーグDen Haagに移住したのは遅くとも1670年の初めです。ですからコンスタンティンとスピノザはすでに知己になっていたのは間違いありません。ただスピノザはこの時点ではフォールブルフに住んでいたわけではないと想定されます。ただしフォールブルフとハーグは隣接しているので,それほど遠いわけではないです。
 コンスタンティンの提案で,ファン・ローンに気晴らしをさせるために,船旅をしたことになっています。全体のプロットは,コンスタンティンがファン・ローンの身を案じてスピノザに会うように助言したことになっていますから,コンスタンティンがそう提案をすること自体は,ストーリーの全体の中で不自然ではありません。目的地はホウダGoudaという町であったとされています。この町は水運で栄えた町とされていますので,そこへ船旅をするというのも不自然な設定であるとは思えないです。一行は6人となっていて,これはコンスタンティン,ファン・ローン,スピノザを含めていると思われますので,ほかに3人が乗船していたということでしょう。前にもいったように,この船旅の時期にはスピノザはフォールブルフには住んでいなかったと思われるのですが,ファン・ローンの気晴らしのための旅にコンスタンティガスピノザを招待するのは不自然ではなく,ハーグとフォールブルフも遠くはないので,スピノザが受けることも可能ではあったでしょう。
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東京スポーツ盃マイルグランプリ&アメリカのプロット

2024-10-17 19:04:57 | 地方競馬
 昨晩の第31回マイルグランプリ
 コパノジャッキーは発馬後の加速が鈍く1馬身の不利。まず先頭に立ったのはリコーシーウルフ。枠入りをやや嫌っていたアランバローズは2番手。3番手にデュードヴァンとスマイルウィ。5番手にナンセイホワイト。6番手にムエックスとボイラーハウスとモダスオペランディ。9番手にスピーディキック。2馬身差でイグザルト。11番手にフォーヴィスム。12番手にマンダリンヒーローとボンディマンシュ。3馬身差でマースインディ。15番手がケイアイサクソニーで2馬身差の最後尾にコパノジャッキー。向正面に入ってからアランバローズが前に出て,そこからはアランバローズの逃げになりました。前半の800mは50秒0のミドルペース。
 途中からの逃げになったアランバローズは先頭に立ってから飛ばしていき,3コーナーでは5馬身くらいのリード。デュードヴァンとスマイルウィが並んで追いかけていきました。アランバローズはリードを保ったまま直線に。デュードヴァンは苦しくなり外からスマイルウィが差を詰めていきました。直線の途中でアランバローズは一杯になったので,スマイルウィが差し切って優勝。スマイルウィの後から追ってきたナンセイホワイトのさらに外からムエックスが差し込み,1馬身4分の1差で2着。一杯となったアランバローズがクビ差の3着でナンセイホワイトが1馬身4分の1差で4着。
                    
 優勝したスマイルウィテレ玉杯オーバルスプリントから連勝。南関東重賞は昨年のゴールドカップ以来の7勝目。マイルグランプリは第30回からの連覇で2勝目。ここは上昇馬のムエックスを除くと力量上位が歴然。大外枠になったことが不安材料でしたが,まずまずの発馬から発馬後の直線の間に好位につけられましたので,問題ありませんでした。アランバローズが力を出し切るというレースに徹したため,レース内容のレベルが高くなり,その分だけ実力通りの結果になりやすく,その点はプラスに作用したのではないかと思います。着順と着差が現状の能力を概ね反映した結果とみてよいでしょう。父はエスポワールシチー
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は東京記念以来の南関東重賞42勝目。その後にテレ玉杯オーバルスプリントを勝ちました。マイルグランプリは第28回,30回に続く連覇で3勝目。管理している船橋の張田京調教師は南関東重賞16勝目。マイルグランプリは連覇で2勝目。

 ふたつ目は1642年の秋の出来事です。ひとつ目よりも前の出来事ですが,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』では後に書かれている,というか後に訳出されているので,この順番になっています。
 ファン・ローンJoanis van Loonが帰宅すると,レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnからの書付がありました。これはよく意味が分からないのですが,たぶんレンブラントがローンの家を訪ねたら,ローンは不在で家人がいたので,その家人にローン宛のメモを渡しておいたという意味ではないかと思います。そのメモの内容は,ローンと友人に,次の木曜日の夜に立ち寄ってほしいというものでした。見せたい絵があると書かれていますが,実際はこの後でアメリカに行く予定になっていたローンの送別会を開くのが主目的です。
 その日の夜の9時になってからローンは立ち寄りました。これはアントニー・ブレーストラートの家となっていて,これは地名を表しています。レンブラントの家はそこにあったのです。その場にメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがいたのです。レンブラントはメナセのエッチングを制作したことがあって,知己の間柄でした。ローンはメナセの話をレンブラントから聞いてはいたようですが,このときが初対面であったと読めるようになっています。
 ローンがアメリカに行くことを知ったメナセとの間でアメリカの話になるのですが,イスラエル民族の行方不明になった種族が,太平洋がまだ陸地だった時代にそこを渡って今日のアメリカの土地に住んでいるので,自分もできればローンのようにアメリカに行きたいのだけれども,神の民すなわちユダヤ人が荒野から出る時節にはまだなっていないので,行くことはできないという主旨のことを言いました。
 もちろんメナセは真面目にこのように言った,つまり真剣にそう信じてそう言っているのであり,そのことが理解できるように,つまりその場にいた人びとにも,読者にも理解できる書き方になっています。ローンはそれが妄想であると分かったけれども,どんな人間にもひとつくらいは妄想を大事にする権利があるのだし,社会で有用な一員となるためには一点で狂っていなければならないから,何も言わなかったとしています。
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農林水産大臣賞典マイルチャンピオンシップ南部杯&主人公

2024-10-14 18:59:02 | 地方競馬
 第37回南部杯
 1枠ということもあったと思いますが,レモンポップがやや押して前に。外からペプチドナイルが並び掛け,2頭が並んで逃げるようなレースに。2馬身差の3番手にサヨノネイチヤ。4番手にヒロシクンで5番手にミックファイア。2馬身差でキタノリューオーとダイシンビスケス。2馬身差でアラジンバローズとキタノヴィジョン。10番手にウラヤとタガノビューティー。ここからは離れてボウトロイ。また離れてゲンパチプライド。ゼットセントラルとマイネルアストリアが並んで最後尾。前半の800mは46秒9のハイペース。
 直線に入るところでも前の2頭は先頭。内目を回ったミックファイアが単独の3番手となりましたが,前の2頭とは離されていきました。逃げた2頭の競り合いはフィニッシュまで続きましたが,最後まで抜かせなかった内のレモンポップが優勝。ペプチドナイルが4分の3馬身差で2着。直線で内寄りを差し込んだキタノヴィジョンが5馬身差で3着。
 優勝したレモンポップさきたま杯以来のレースで大レース5勝目。第36回からの連覇で南部杯は2勝目。このレースは負けられないといっていいくらいのメンバー構成。ずっとついてきたペプチドナイルに大きな差はつけることができませんでしたが,発馬後にやや無理をした部分もあったでしょうし,相手も大レースの勝ち馬ですからそれだけの力があるということでしょう。国内では完璧に近い成績を残していて,おそらく競走生活はもう長くないでしょうから,このままいってほしいところです。
 騎乗した坂井瑠星騎手はジャパンダートクラシック以来の大レース11勝目。南部杯は連覇で2勝目。管理している田中博康調教師はさきたま杯以来の大レース5勝目。南部杯は連覇で2勝目。

 コンスタンティンConstantijin Huygensがファン・ローンJoanis van Loonにスピノザを紹介したという『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の設定は,不自然ではありません。しかしこのことは,これが創作ではないということを保証するものではありません。むしろ自然な設定であるがゆえに,創作することも可能だといわなければなりません。むしろ創作としてはあまりに不自然であると思われることが含まれている場合に,それが純粋な創作であるとは疑わしいということができるのです。ただ,僕がここでこの例を先に示しておいたのは,この作品の中には確かに設定としてごく自然と思われる事柄も含まれているということをいっておきたかったからです。純粋な創作としては不自然と思われる部分についても後に説明しますが,『レンブラントの生涯と時代』はそういう部分だけで構成されているわけではありません。
                            
 それから,この作品が生まれる契機となったのがスピノザだったという設定になっていますから,その中にスピノザに関わるようなことも書かれることになったのですが,あくまでも主題がレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnにあるということは前にもいったとおりです。したがって,吉田がいっているように,これがヘンドリックHendrik Wilem van Loonの創作であるとしたら,ヘンドリックはレンブラントについて書きたかったということになり,スピノザについて書きたかったわけではないということになります。いい換えればヘンドリックはレンブラントには関心があったけれども,スピノザに対しては,少なくともレンブラントほどには強い関心をもっていなかったということです。もしもスピノザのことを書きたかったのならそれを主題にすればよいのであって,わざわざレンブラントを主人公に据える必要はありませんから,これは当然のことだといえます。
 したがって,この作品がどの程度まで歴史に準じているのかということ,いい換えれば史実として参考になる資料があるのか否かということは,第一にはレンブラントについて書かれている部分を読んで,それがすでに知られているレンブラントの人生の歴史にどれほど適合しているのかということをみなければなりません。しかし『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』は抄訳なのです。
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スポーツニッポン賞鎌倉記念&スピノザの認識

2024-10-10 19:02:04 | 地方競馬
 北海道から1頭,高知から1頭が遠征してきた昨晩の全日本2歳優駿トライアルの第23回鎌倉記念
                            
 内の各馬の出方をみつつベアバッキューンがハナに立ち,2番手にミランミラン。3番手はハセノブライアンとゴールドモーニン。2馬身差でケンシレインボー。3馬身差でジャガーノート。4馬身差でレッドサラマンダーという隊列で発馬後の正面を通過。そのままベアバッキューンは飛ばしていき,向正面ではリードが3馬身くらいに開きました。前半の800mは52秒8の超スローペース。
 向正面で一旦はゴールドモーニンが単独の3番手になりましたが,ケンシレインボーが差を詰めていき,3番手に。直線の入口でもベアバッキューンのリードは3馬身。ミランミランとケンシレインボーの差は2馬身ほど。ゴールドモーニンがさらに2馬身差の4番手。直線に入るとベアバッキューンが後ろとの差を広げる一方となり,2秒2もの差をつける圧巻の逃げ切り。ミランミランが2着を死守し,ケンシレインボーが2馬身半差で3着。
 優勝したベアバッキューン若武者賞に続いて南関東重賞2勝目。デビューからの連勝を4に伸ばしました。このレースは例年は北海道から複数の馬が参戦してきて好走するのですが,今年は1頭だけ。それはおそらくベアバッキューンが強いとみられていたためで,その下馬評通りの圧勝。まだ逃げる競馬しかしていない点は不安ですが,このスピード能力ですから全日本2歳優駿でも有力でしょう。勝ち負けするにはもう少しタイムを詰める必要があると思いますが,このレースは超スローペースでしたから,それも可能ではないでしょうか。父はモズアスコット。母の父はネオユニヴァース
 騎乗した川崎の町田直希騎手は若武者賞以来の南関東重賞15勝目。鎌倉記念は初勝利。管理している川崎の鈴木義久調教師は南関東重賞2勝目。鎌倉記念は初勝利。

 スピノザとウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaの間に本当に面識があったかどうかは分かりません。ただ,仮に会ったことがなかった場合でも,ダ・コスタはスピノザのことを知らかったとしても,スピノザがダ・コスタを知らなかったということはあり得ないでしょう。もちろんそれは,単にダ・コスタという人間がいたということを知っていたということではなくて,ダ・コスタがかつて破門宣告を受け,その宣告を解いてもらうために屈辱的な儀式を行った後で,自殺をした人間であるということを知っていたという意味です。
 ファン・ローンJoanis van Loonの『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の中に,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがスピノザに対して,第二のアコスタになるのかと怒鳴りつける場面があります。これに対してスピノザは,ウリエルの後を追うつもりはないと答えています。この部分は実際にあった出来事であるとはいえない面があるのですが,ファン・ローンがこのように記しているということは,スピノザがダ・コスタのこと,とくに末路を知っていたことを前提しているからです。いい換えれば,スピノザがダ・コスタのことを知っているということは,当然視されていることになります。
 スピノザが死んだとき,呪詛されるべきスピノザの死をアムステルダムAmsterdamのユダヤ人のだれかが知ったとしたら,それは瞬く間にその共同体の中に広まったであろうから,レベッカRebecca de SpinozaやダニエルDaniel Carcerisもそのことを知ったであろうと僕はいいました。これはアムステルダムのユダヤ人共同体というのがそれほど大きな共同体ではなかったがゆえのことです。だからこのことはダ・コスタの破門や自殺についても同じことがいえるのであって,このことはアムステルダムのユダヤ人共同体に住んでいた人なら,だれでも知っていたであろう出来事だと解するのが適切です。なのでたとえスピノザとダ・コスタの間には面識はなかったとしても,スピノザがダ・コスタのことを何も知らなかったということはあり得ないというべきでしょう。
 さらにいうと,このことは単にアムステルダムのユダヤ人共同体に住んでいた人だけに周知の出来事だったというわけではなく,オランダ人にもおそらく同様でした。
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東京盃&遺品目録

2024-10-04 19:18:15 | 地方競馬
 昨晩の第58回東京盃
 ブラックストームは発馬で立ち上がってしまい大きく取り残されました。エンテレケイアが予想通りに逃げ,ヘリオスが2番手。3番手はマックスとシャマル。5番手にギャルダルとエートラックス。7番手にチカッパとイグナイター。9番手にボイラーハウスとスターシューターとクロジシジョー。3馬身差でジゼルとケイアイサクソニーで大きく離れてブラックストームという隊列。前半の600mは34秒2のハイペース。
 3コーナーではエンテレケイア,ヘリオス,シャマルの3頭が雁行になり,外の方からギャルダルとエートラックスも追い上げてきました。直線に入ると前の3頭からシャマルが前に。外に出されたチカッパがそれを追い,内を回って逃げたエンテレケイアとシャマルの間を突いてマックス。外のチカッパが差し切って優勝。マックスが半馬身差の2着でシャマルが半馬身差で3着。
 優勝したチカッパ北海道スプリントからの連勝で重賞2勝目。このレースは有力馬が外目の枠に集中しましたので,波乱の余地もあるとみていました。シャマルは3着に入れましたが,総じて内目の枠から道中は内を走った馬が上位に入っていますから,その面の影響は大きかったと思います。とはいえ古馬との初対戦で結果を出したのは評価できるところ。1400mよりも1200mの方が向くスプリンターとみていいでしょう。父はリアルスティール。馬名は博多弁でとても。
 騎乗した横山典弘騎手は第30回以来となる28年ぶりの東京盃2勝目。管理している中竹和也調教師は東京盃初勝利。

 葬儀についてはスペイクが支度をして4日後に執り行われたとナドラーSteven Nadlerはいっていて,その理由が葬儀費用の捻出のためであったとしているフロイデンタールJacob Freudenthalとは見解を異にしています。アムステルダムAmsterdamから来た会葬者も少なくなかったに違いないといっていますが,具体的な名前は出していません。コレルスJohannes Colerusが何の報告もしていませんし,会葬者の名簿は記録として残していないでしょうから,これはある意味では当然です。ただフッデJohann HuddeとかマイエルLodewijk Meyer,イエレスJarig Jellesといった人たちはアムステルダムに住んでいたわけですから,彼らが出席したことについてナドラーが否定しているというわけではありません。
                            
 レベッカRebecca de SpinozaとダニエルDaniel Carcerisについても,葬儀に出席したかどうかは分からないとナドラーはいっています。ここでナドラーはダニエルのことを,レベッカの甥でもあり義弟でもあるといっているのですが,この意味は僕には不明です。ダニエルはレベッカの姉であるミリアムMiryam de Spinozaの子であって,後にミリアムが死んで夫とダニエルが残されたところにレベッカが嫁いだのです。これでみればレベッカとダニエルの関係は義姉弟ではなく,義母子になる筈だからです。ダニエルがミリアムの子であるということはしかとした記録として残されているのですから,ダニエルがレベッカの義弟であるとすれば,レベッカがダニエルの父の義娘になった場合です。しかし義娘になる理由があるようには思えませんし,吉田は結婚したのだと確定的に書いています。なのでこの部分は誤りではないでしょうか。
 レベッカは3月2日に,自身とダニエルをスピノザの遺産の相続人であると宣言しました。この宣言によってスペイクはスピノザの遺品の目録を作成する権限を与えたとされています。フロイデンタールの記述だと,死の当日に遺品の目録が作成されたけれども,正確ではなかったのでスペイクが正しい目録を作ったと読めるようになっていて,死の当日に遺品の目録が作成されていたことについてはナドラーも否定していませんが,3月2日の遺品目録は,レベッカの要求に従ってスペイクが改めて作成させたということですから,最初の遺品目録も不正確だったのではないかもしれません。
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農林水産大臣賞典ジャパンダートクラシック&死亡診断書

2024-10-03 19:14:50 | 地方競馬
 昨晩の第26回ジャパンダートクラシック
 クルーミーズクライは1馬身ほど遅れました。逃げたのはカシマエスパーダ。フォーエバーヤングとサンライズジパングが2番手を並走。その後ろがフジユージーンとサントノーレとサトノエピック。7番手にラムジェット。8番手にミッキーファイト。9番手にポッドロゴでその後ろはシンメデージーとケンタッキースカイの併走。2馬身差でボンドボーイ。大きく離れてクニノトキメキとブラックバトラーで併走となり,3馬身差の最後尾にクルーミーズクライ。前半の1000mは61秒6のミドルペース。
 向正面でラムジェットが外から進出。このために3コーナーでは内からカシマエスパーダ,サンライズジパング,フォーエバーヤング,ラムジェットの4頭が雁行になり,その後ろにフジユージーンとサトノエピックとミッキーファイトの3頭。フォーエバーヤングが単独の2番手になってコーナーを回り,直線の入口ではカシマエスパーダの前に出て先頭に。コーナーで3番手に下がったサンライズジパングがフォーエバーヤングの外に出され,ラムジェットはその外。さらにラムジェットの外からミッキーファイト。しかし直線先頭のフォーエバーヤングがそのまま危なげなくフィニッシュまで押し切って優勝。ミッキーファイトが1馬身4分の1差で2着。サンライズジパングが5馬身差の3着でラムジェットが1馬身差の4着。後方から大外を鋭く追い込んだシンメデージーが4分の3馬身差で5着。
 優勝したフォーエバーヤングUAEダービー以来の勝利で重賞5勝目。大レースは全日本2歳優駿以来の2勝目。ここはこの馬とラムジェットの対決。シンメデージーとの差を考えるとラムジェットは力を出し切れていない感がありますが,決着はついたといえ,この馬が3歳馬ではトップといっていいでしょう。距離もこのくらいあった方が戦いやすい馬のようです。父はリアルスティール。3代母がローミンレイチェルで祖母の3つ下の半弟がゼンノロブロイ
                            
 騎乗した坂井瑠星騎手はさきたま杯以来の大レース10勝目。第22回以来となる4年ぶりのジャパンダートクラシック2勝目。管理している矢作芳人調教師は全日本2歳優駿以来の大レース26勝目。第18回,22回に続くジャパンダートクラシック3勝目。

 老いた鶏のスープを食べさせることが,医療行為であるのかどうか分かりません。もしこれが医療行為であったとしたら,スペイクはその指示によってアムステルダムAmsterdamから来たその人が医師であったと理解したでしょう。しかしそうでなかった可能性もあるわけですから,このことでスペイクがアムステルダムから来た人物を医師であると特定できたと断定できるわけではありません。
 この人物は,スピノザが死んだときに,スペイクの家にふたりきりでいました。だからスピノザが死んだということを判定したことになります。こうした判断が医師にしかできなかったとすれば,アムステルダムから来た人物は間違いなく医師だったことになります。ただ,人が死んだかどうかということだけの判断であれば,これはだれにでもできるといえます。実際に僕の父が死んだときも僕の母が死んだときも僕は枕元にいましたが,死んだのではないかと思ったから看護師を呼んだのであり,確かに僕には父も母も死んだということが分かったのです。ただ僕が看護師を呼んだのは,その最終判定が医師に任されているからであり,僕が呼んだ看護師も,確かに死んでいると判断し,さらに医師を呼んで最終的な判断をしてもらったのです。したがって,もしこの時代にも死亡診断書のような書類があって,その診断書を出すことができるのが医師免許を持っている人に限定されていたのであれば,スピノザの死亡診断書を書いたのはこのアムステルダムから来た人物にほかならないでしょうから,この人物は確かに医師であったと断定することができます。よって当時の状況がこのようなものであれば,アムステルダムから来たのはシュラーGeorg Hermann Schullerであったことになり,マイエルLodewijk Meyerであったことにはなりません。しかし当時の状況が分からないので,このようにはいえないのです。したがって,アムステルダムから来た人物が医師であるとコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaに書かれているからといって,それをシュラーであったとする材料にはならないのではないかと僕は思います。医師ではなかったマイエルが来た場合であっても,スペイクはマイエルを医師であると間違える可能性を否定することができないからです。
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レディスプレリュード&医師

2024-10-02 18:57:59 | 地方競馬
 昨晩の第21回レディスプレリュード
 アイコンテーラーとアーテルアストレアは立ち遅れて1馬身の不利。ヴィブラフォンが前に出ると立ち遅れたアイコンテーラーが外から追い上げていきましたが前に出るには至らず2番手。2馬身差でラブラブパイロとライオットガール。2馬身差でグランブリッジ。2馬身差でアーテルアストレア。2馬身差の最後尾にアンティキティラという隊列。最初の800mは51秒0のミドルペース。
 向正面の半ばから3番手併走だったラブラブパイロが遅れはじめ,単独の3番手となったライオットガールが前との差を詰めていき,グランブリッジが4番手に。直線の入口ではヴィブラフォンとアイコンテーラーが併走となり,その外にライオットガールとグランブリッジ。コーナーは内を回って追い上げてきたアーテルアストレアがここからグランブリッジの外へ。アイコンテーラーがヴィブラフォンの前に出て先頭に立つと,ライオットガールは追っていくことができず,グランブリッジとアーテルアストレアが追い詰めていき3頭の優勝争い。真中から最後に前に出たグランブリッジが優勝。アイコンテーラーがアタマ差で2着。アーテルアストレアは4分の3馬身差で3着。
 優勝したグランブリッジは昨年のエンプレス杯以来の勝利で重賞5勝目。レースでは常に力を出すのですが,牡馬相手のレースも多かったこともあり,なかなか勝てずにいました。牝馬戦では能力上位だと思うのですが,2着が多い馬ですから,そういうタイプであると把握しておく必要があるでしょう。母の父はダイワメジャービューチフルドリーマーワールドハヤブサの分枝。
                            
 騎乗した川田将雅騎手第17回以来となる4年ぶりのレディスプレリュード2勝目。管理している新谷功一調教師はレディスプレリュード初勝利。

 僕はこのような状況から考えると,遺稿集Opera Posthumaの編集者の総意としてスピノザの遺稿の売却が考えられていたわけではなく,シュラーGeorg Hermann Schullerが独断でライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して遺稿の買取りを打診したのではないかと思います。他面からいえば,ほかの編集者たちは考えを改めて遺稿集の出版を決断したわけではなくて,その遺稿を入手した以上は出版するために当初から奔走していたのではないかと思います。
 『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』に関連した部分はこれだけです。次に『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の当該部分をみておきます。
 すでにいっておいたように,ナドラーSteven Nadlerはスピノザの死を看取った医師はマイエルLodewijk Meyerであったと解しています。ただし,シュラー説も紹介されていて,その可能性を否定していません。これはフロイデンタールJacob Freudenthalが実際にはシュラーであったとするときにも同様なのですが,この人がアムステルダムAmsterdamから来た医師であったということが理由のひとつとされています。マイエルは医師ではないけれどもシュラーは医師であったので,アムステルダムから来たのが医師であったとするなら,それはマイエルではなくシュラーであったとする見方です。
 僕はそれが本当に理由になるのかということは疑問に感じる部分もあります。すでにいっておいたように,もしもスペイクがシュラーが来たのにマイエルが来たと勘違いするなら,スペイクはシュラーともマイエルとも面識がなかったとしなければなりません。なのでシュラーなりマイエルなりが来たときに,その人が医師であるのか医師ではないのかということをスペイクが知ることができるのかということに疑問を感じるからです。スペイクが,実際にはシュラーが来たのにマイエルが来たと間違える場合の例をすでに示しましたが,それと同じように,スピノザからは医師が来ると伝えられていたけれどもマイエルが来たという場合には,スペイクはマイエルのことを医師と思い込むということがあり得るからです。実際にこのアムステルダムから来た医師と記述されている人がなしたと書かれているのは,老いた鶏のスープを作らせてスピノザに食させたことと,スピノザの死後に机の上の金品を持ち帰ってしまったことだけです。
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サッポロビール盃マリーンカップ&フロイデンタールの推測

2024-09-27 18:51:26 | 地方競馬
 昨晩の第28回マリーンカップ
 アンモシエラとアンデスビエントが競り合い,後続に5馬身ほどの差。内のアンモシエラが前には出ましたが,アンデスビエントも引かずに半馬身差の外に並ぶ形がずっと続きました。3番手はザオ。3馬身差でクラヴィコード。4馬身差でフォルトリアンとテンカジョウが併走と,頭数のわりに縦長の隊列。向正面に入ってザオは3馬身差の3番手まで差を詰め,すぐ後ろにクラヴィコード。その後ろも3馬身差でテンカジョウが単独の5番手となり,4馬身差の最後尾にフォルトリアン。最初の800mは48秒1の超ハイペース。
 3コーナー手前からザオがさらに前との差を詰めていくとアンデスビエントは一杯になって後退。2番手となったザオが最終コーナーでアンモシエラの前に。直線では外からクラヴィコードがザオを追っていき,その間に進路をとったのがテンカジョウ。間を割ったテンカジョウが突き抜けて優勝。クラヴィコードがぎりぎりでザオを差して5馬身差の2着。ザオがアタマ差で3着。盛り返してきたアンモシエラが2馬身半差の4着。
 優勝したテンカジョウは重賞初勝利。このレースは春に重賞で実績を残した2頭と,古馬を相手に2勝クラスを勝ち上がった2頭の争いという構図。この4頭のうち3頭が逃げて実績を残していたのですが,春に重賞で実績を残した2頭が超ハイペースで競り合うことになり共倒れ。アンモシエラは逃げなくても結果は出せていたので,この2頭の枠順が逆であればレースの形態も変わり,結果も変わっていたかもしれません。差し脚が身上のテンカジョウには願ってもない展開でしたから,着差に準じた能力の差があるというようには思わないです。従姉の子に昨年のゴールドジュニアを勝った現役のクルマトラサン
 騎乗した国分優作騎手と管理している岡田稲男調教師はマリーンカップ初勝利。

 ここまでのことのうち,フッデがスピノザの葬儀に出席したということについては,訝しく感じる人がいるかもしれません。遺稿集Opera Posthumaが発刊されるとき,フッデは自身とスピノザの間に交流があったということを秘匿しようとしていたからです。しかし,僕はこのこと自体は不自然であるとは考えません。スピノザの葬儀は確かに大きな規模のものであったとはいえ,出席した人の数は限られますし,出席者の名簿が出回るというわけではありません。ですからフッデがスピノザの葬儀に出席したということを知ることができる人は限られるのであって,かつそうした人がそれを吹聴したとすれば,その人もまた自分はスピノザの葬儀に出席したといっているのに等しくなります。したがって,フッデがスピノザの葬儀に出席したということが,世間に広く知れ渡ってしまう可能性はきわめて低いということになるでしょう。ですからフッデがスピノザの葬儀に出席したとしても,おかしくはないと僕は思います。
 ただしこれは,フッデが確かにスピノザの葬儀に出席したということを意味するわけではありません。フロイデンタールJacob Freudenthalは何か確証があってスピノザの葬儀に出席した人の名前をあげているわけではなく,フロイデンタール自身の推測であると僕には思えるような文章になっているからです。ですから確かにフッデがスピノザの葬儀に出席したとは僕は解しません。ただ出席していたとしても,生前のスピノザとフッデとの関係を踏まえれば,まったくおかしなことではないと思います。
                            
 さらにフロイデンタールは次のことをいっています。
 スピノザが死んだのは2月21日ですが,この日のうちにスピノザの所有物の目録が作成されました。ところがその目録は不正確であったので,3月2日にほかのもの,これは正確なものという意味だと思いますが,それに差し替えられました。この差し替えはスペイクの申し出によるとされています。ということは,死んだ日のうちに作成された目録はスペイクの申し出によって作成されたわけではないようにも読めます。だれかが依頼して作られたものが不正確だったから,スペイクが正確なものを作らせたと読めるからです。
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日本テレビ盃&葬儀の出席者

2024-09-26 18:56:59 | 地方競馬
 昨晩の第71回日本テレビ盃
 ウィリアムバローズが逃げて2番手にデルマソトガケ。3番手にギガキングで4番手にメイショウハリオ。2馬身差でゴールドハイアーとナニハサテオキ。2馬身差でウシュバテソーロ。2馬身差でホウオウトゥルースとコラルノクターン。3馬身差でキャッスルトップ。シンコーマーチャン,マイネルヘリテージと続いて2馬身差の最後尾にソルトゴールドという隊列で発馬後の正面を通過。向正面の半ばで4番手がナニハサテオキとメイショウハリオの併走になり,2馬身差でゴールドハイアー。さらに2馬身差でウシュバテソーロに。前半の800mは49秒6のミドルペース。
 3コーナー前から逃げたウィリアムバローズが後続の追い上げを待たずにペースアップ。デルマソトガケの外からメイショウハリオが追ってきて,ナニハサテオキの外からウシュバテソーロ。直線に入ったところでウィリアムバローズが抜け出しました。追ってきたのは大外のウシュバテソーロ。よく差を詰めましたが届かず,鋭く逃げ切ったウィリアムバローズが優勝。ウシュバテソーロが1馬身差で2着。早めに3番手に上がったメイショウハリオが4馬身差の3着で追い上げたナニハサテオキが1馬身差で4着。一杯になったデルマソトガケは2馬身半差で5着。
 優勝したウィリアムバローズは東海ステークス以来の勝利で重賞2勝目。ここはそのときよりも相手関係が強化していたので,勝つまではどうかと思いましたが,詰め寄られたとはいえ危なげのない快勝で,追いかけてきた馬たちは突き放していますから,大きく評価できるところ。大レースを勝てるところまできているとみていいでしょう。父はミッキーアイル。母の父はシンボリクリスエス
 騎乗した坂井瑠星騎手と管理している上村洋行調教師は日本テレビ盃初勝利。

 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの当該部分から僕が理解できることはここまで記してきた通りです。そしてその中に数々の疑問点があるということは分かってもらえたと思います。それは解決可能なものではありません。ただこの部分に関して,ほかの伝記の中により詳しい記述がありますから,それもみておくことにしましょう。
                            
 フロイデンタールJacob Freudenthalの『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』では,スピノザの葬儀に出席した人物が書かれています。フッデJohann Hudde,イエレスJarig Jelles,リューウェルツJan Rieuwertsz,マイエルLodewijk Meyerは確かに出席したとされていますが,出席したであろうという書き方ですので,確証があるわけではないかもしれません。一方,シュラーGeorg Hermann Schullerは出席していなかったとされていて,それはシュラーがこの葬儀の翌日,すなわち1677年2月26日にはアムステルダムAmsterdamにいて,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに手紙を書いていることが根拠とされています。葬儀および埋葬にどれほどの時間を要し,それが何時に終わったのかということが定かではないので,前日にハーグDen Haagで葬儀に出席したシュラーが,翌日にアムステルダムで手紙を書くということが本当に不可能なのかどうか僕には分かりません。また,フロイデンタールはスピノザの臨終を見守ったのがシュラーであると考えていて,この人はコレルスの伝記によれば臨終の日のうちにアムステルダムに帰ってしまい,そのままスピノザを顧みることはなかったとされています。それはつまり葬儀および埋葬には顔を出さなかったということを意味するのであって,マイエルが出席しシュラーが出席しなかったということは,コレルスの伝記が意味するところがスピノザの臨終を見守ったのがシュラーであったということと辻褄が合います。むしろこちらの考え方から,フロイデンタールはマイエルは出席したけれどもシュラーは出席しなかったといっているのかもしれませんから,この部分のフロイデンタールの記述は,そのまま信用するには値しないかもしれません。
 スピノザが死んだのが2月21日で,埋葬が25日になった理由について,これは葬儀費用の問題であったというようにフロイデンタールはいっています。要するにだれがそれを支払うかが決まらなかったということです。
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農林水産大臣賞典白山大賞典&破門者の死

2024-09-23 18:58:49 | 地方競馬
 第44回白山大賞典
 オートヴィルは立ち遅れて1馬身の不利。ダイシンピスケスとメイショウフンジンが並んで逃げるようなレース。一時的に3番手との差が6馬身くらいになりました。アンタンスルフレ,ラバタンシン,ディクテオンの順で続き,2馬身差でサンマルパトロール。テンカハルとヴェレノは並んで追走。この後ろがまた6馬身くらい離れてモズプラチナ。2馬身差でミストラルウインドとファルコンウィング。最後尾にオートヴィルとかなり縦長の隊列。1周目の正面でディクテオンが3番手に進出。2馬身差の4番手にサンマルパトロールが上がって3馬身差でアンタンスルフレとテンカハル。ミドルペースでした。
 2周目の向正面に戻ってディクテオンが内から進出。逃げる2頭の内から前に出ました。ダイシンピスケスは外からついていきましたがメイショウフンジンは後退。サンマルパトロールが3番手に上がってきました。先頭で直線に入ってきたディクテオンはそこから後ろとの差を広げていって快勝。粘ったダイシンピスケスが5馬身差で2着。サンマルパトロールが1馬身差で3着。
 優勝したディクテオンは昨年の名古屋グランプリ以来の勝利で重賞3勝目。このメンバーでは実績が明らかに上で,負けられないといっていいくらいのメンバー構成。力を出しての快勝となりました。トップクラスとはまだ差がある印象ですが,それに続く勢力の中では上位といえる存在でしょう。父はキングカメハメハ。母がメーデイアでその父がキングヘイロー。Diktaeanはゼウスの誕生の地。
 騎乗した横山和生騎手と管理している吉岡辰弥調教師は白山大賞典初勝利。

 スペイクはスピノザの葬儀には名士が参列したとコレルスJohannes Colerusに証言したので,コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにはそう書いてあります。前にもいったように,この点に関してはスペイクにも誇張できない理由がありましたから,この点はそんなに疑う必要はないと思われます。そこでスペイクの証言を信頼するなら,多数の名士がその葬儀に出席するようなスピノザの死は,オランダにおいてそれなりの話題に上っていたかもしれません。ですから,たとえイエレスJarig Jellesのような,面識があったであろうスピノザの友人から報知されなくても,レベッカRebecca de SpinozaやダニエルDaniel Carcerisがスピノザの死を,死の当日から時間をおかずに知り得た可能性も高そうです。
                            
 スピノザはアムステルダムAmsterdamのユダヤ教会から破門された人物です。つまりアムステルダムで共同体を構成しているユダヤ人にとっては忌み嫌う存在でした。ですからそのスピノザが死んだということは,アムステルダムのユダヤ人たちにとっては喜ぶべき事柄です。なのでスピノザが死んだことがアムステルダムのユダヤ人たちの知るところとなったとしたら,それほど大きな共同体ではないのですから,共同体を構成しているすべてのユダヤ人がそれを知ったことでしょう。ですからこういう経路でレベッカやダニエルがスピノザが死んだということを知ったということも大いにあり得るでしょう。その場合はレベッカが自力でスピノザがどこで死んだかを調べて,スペイクに会いに行ったということになります。
 なおこの点は,ガブリエルが遺産相続人に名を連ねていないことと関連させて考えることもできます。ガブリエルはスピノザと共に商店を経営していたわけですから,スピノザがユダヤ人共同体から追放されることによって最も多大な迷惑を被った親族であったと推定されます。ですからガブリエルは,たとえ兄に遺産が残されていたとしても,それを相続したいという気持ちになれなかった,より積極的にいえばそんな遺産は相続したくないという気持ちが強かったとしてもおかしくはありません。ですからガブリエルは自ら遺産を相続することを放棄したのであって,その権利のすべてをレベッカとダニエルに譲ったというケースも想定できます。
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テレ玉杯オーバルスプリント&借金

2024-09-18 19:19:49 | 地方競馬
 第35回テレ玉杯オーバルスプリント
 キャプテンドレイクは発馬で立ち上がり2馬身の不利。シーサーベントが逃げて2馬身くらいのリード。2番手にイーグルノワール。3番手にスレイマンとスマイルウィで5番手にテーオーステルス。6番手がサンライズホークで2番手から6番手までは一団。キャプテンドレイクは大きく引き離されました。最初の600mは35秒8のハイペース。
 向正面でサンライズホークが外から追い上げていき,3コーナーでは2番手。その勢いのまま一旦は先頭に出ましたが逃げたシーサーベントも巻き返し,コーナーは併走。その後ろをイーグルノワールとスマイルウィが並んで追い,さらにテーオーステルスとスレイマンの併走。直線の入口でサンライズホークが前に出て,シーサーベントは一杯。先頭に立ったサンライズホークの外からスマイルウィが差し込み先頭に。さらに外からスレイマンも伸びてきましたが,抜け出していたスマイルウィには追いつけず,スマイルウィが優勝。サンライズホークは差したスレイマンが4分の3馬身差で2着。サンライズホークがクビ差で3着。
                         
 優勝したスマイルウィゴールドカップ以来の勝利。重賞は初制覇。このレースは能力ではサンライズホークでしょうが,凡走が続いていましたので,スマイルウィが最有力候補ではないかとみていました。前走が大敗だったのでその点は心配だったのですが,休養明けで態勢が整っていなかったということなのだと思います。今日は力を発揮しての勝利。この距離であれば重賞でも通用しますので,JBCスプリントに出走するならチャンスもあるのではないかと思います。父はエスポワールシチー
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は一昨年のさきたま杯以来となる重賞7勝目。テレ玉杯オーバルスプリントは初勝利。管理している船橋の張田京調教師は開業から9年2ヶ月で重賞初勝利。

 レベッカRebecca de Spinozaは葬儀費用および借金の前払いを承諾しなかったとあります。コレルスJohannes Colerusが調査した諸々の記録の中に,スピノザの存命中の借金と思われるものがあり,ここでいわれている借金はそれを意味しているかもしれません。ただこの文章はそれ自体で抽出すると,スペイクが個人的にスピノザに金を貸していて,その借金の前払いをレベッカに対して請求したというように読むのが自然になっています。ですから実際にはそうしたものがあって,それをもはやスピノザから返してもらえるあてがなくなってしまったから,スペイクがレベッカにそれを請求したのかもしれません。
 とはいえスペイクとスピノザの関係というのは,世帯主と間借り人だったわけですから,スペイクが金銭をスピノザに貸すということは,常識的には考えにくいように僕には思えます。なので,もしスピノザがスペイクに対して借金があったということなのであれば,それは未払いの家賃があったということだと思います。スペイクとスピノザとの間での家賃の支払いの契約がどのようになっていたのかは不明ですが,たとえばスピノザが死んだ2月の家賃は支払われていなかったということはあり得ますから,この種の借金をスピノザがスペイクに対して抱えていたということはありそうだと思えます。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,スピノザがスペイクに対して借金があったのであって,それが未払いの家賃であったという解釈が採用されています。
 借金がどういったものであったかを確定させることはできませんが,いずれにせよレベッカは葬儀費用も借金も支払うことを拒絶しました。このためにスペイクはリベールトゥス・ルーフLibertus Loefという人に依頼して公正証書を作成してもらい,スペイクの代理人であるロベルト・スフメディングRobert Schmedingという人物がその証書を基にレベッカに正式に支払いを請求したとあります。この公正証書が作成されたのは3月30日で,この時点ではリューウェルツJan Rieuwertszからスペイクは葬儀費用を受け取っていたと思われるのですが,レベッカが遺産相続人であると主張した時点では,その支払いが確定していなかったので,証書の作成を依頼したということだったのかもしれません。
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