スピノザが使用していた机をリューウェルツJan Rieuwertszに送ったことについて,スペイクがコレルスJohannes Colerusに話さなかったことには,ふたつの理由が考えられます。
ひとつは,スペイクがそのことの重大性に気が付いていなかったという場合です。スペイクは自分がリューウェルツに渡したのは単に机であって,その中にスピノザの遺稿が入っているということを知らなかったとしたら,そのことはスペイクにとってとくに大きな意味があることではありませんから,あえてスペイクに話す必要はありません。むしろスピノザが死んだ後に自分がなした多くの事柄のうちのひとつとして,もう忘れてしまっていたということさえありそうです。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにはスピノザの遺品がどのようなものであったのかということが,かなり詳細に書かれているのですが,それはすべて記録を基にコレルスが調べたものであって,スペイクから伝えられたことではありません。いい換えればスピノザの遺品にどのようなものがあったかということは,スペイクはコレルスに何も話していないのかもしれません。もしかしたら遺品がどのようなものであったのかということ自体がスペイクにとっては意味のある情報ではなかったのであって,机もそのひとつであったのかもしれません。
もうひとつ,逆にスペイクは事の重大性に気付いていたからあえてそれを秘匿したということも考えられるでしょう。スペイクがその机をリューウェルツに送ったからスピノザの遺稿集Opera Posthumaが発行される運びになったのですが,その遺稿集はすぐに発売禁書の処分を受けました。これは逆にいえば,意図があったかどうかということは別に,スペイクが禁書の発行に貢献を果たしたということ意味します。他面からいえば,スペイクは禁書に指定されるような本の発行を防ぎ得る立場にあったのに,それをしなかったということを意味します。これはスペイクにとって公にしたくないことであったとしてもおかしくないでしょう。だからスペイクはこのことをコレルスには伝えなかったというケースも考えられると思います。
いずれにせよこのことはコレルスの伝記に書かれなかったのですが,リューウェルツの名前は出てきます。
これはあくまでも物語であって,実際にそうであったといいたいわけではありません。ただ,フッデJohann Huddeに対する配慮とライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対する配慮の間には差があったということは厳然たる事実であって,その理由をどこに見出すかといったときに,僕が物語として提示した仮説を全面的に否定できるわけではないと思います。もちろんだからシュラーGeorg Hermann Schullerがスピノザの最期を看取ったのだとしなければならないわけではないですが,この仮説に対してわずかでも有利な条件になることは事実だと思います。とはいえコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaが示しているのはその医師はマイエルLodewijk Meyerだったということであって,事実としてそうであったかもしれません。一方でこの医師がシュラーであった可能性もないとはいえないのであって,それも否定する必要はないでしょう。ただ,マイエルであるかシュラーであるかのどちらかなのであって,それ以外の人物ではなかったと思います。
スピノザの死後のことで,スペイクが関わったのだけれど,コレルスの伝記では触れられていない重要なことがひとつあります。
スピノザは生前,もしも自分が死ぬようなことがあったら,おそらくスピノザが哲学の研究に使っていたと思われる机については,遺品として整理するのではなく,アムステルダムAmsterdamのリューウェルツJan Rieuwertszに送るようにスペイクに依頼していました。どのような形であったのかは分かりませんが,スペイクがこの依頼を忠実に守ったことははっきりしています。というのはこの机の中にスピノザの遺稿が入っていたのであって,編集者でもありまた印刷業と書店業を営んでいたリューウェルツの手にこの机が渡ったから,遺稿集Opera Posthumaの発刊が可能になったからです。したがってこのことは,それこそアムステルダムから来た医師が,スピノザが置いておいた金品をポケットに入れてその日のうちに帰ってしまったなどということと比べればよほど重要なことなのであって,伝記の中に記しておくべき事柄であったと思われます。しかしコレルスJohannes Colerusはこのことを記していません。これはたぶんコレルスがそのことを知らなかったからなのであって,つまりスペイクがそのことをスペイクに秘匿したからだと思われます。
書簡七十および書簡七十二が公表されれば,スピノザとライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとの間で書簡を通しての交流があったということが判明してしまうということは,この両方の書簡を読んだことがある人物でなければ分からない筈です。遺稿集Opera Posthumaの編集者のうち,その内容を事前に知っていたのは,書簡七十をスピノザに送り,書簡七十二をスピノザから受け取ったシュラーGeorg Hermann Schuller以外にあり得ないでしょう。ですからこの2通の書簡が遺稿集に掲載されなかったのは,ライプニッツの意向を汲んだシュラーの功績であったのではないかと僕は思うのです。ということは,それ以外の,この事前に交わされていたライプニッツとスピノザの間の書簡が遺稿集に掲載されなかったことも,シュラーの功績だったのではないでしょうか。
一方,シュラーとライプニッツは書簡で交流を続けていたのですが,書簡七十と書簡七十二を通してだけしかスピノザとライプニッツの書簡での交流があったということをシュラーが知らなかったら,ふたりの間での書簡というのは,哲学とか神学に関連するものだけであったと早合点してもおかしくはありません。そうなると,そうした書簡については掲載しないようにすることは可能であったかもしれませんが,書簡四十五および書簡四十六に関してはそうした内容を有していないので,そもそもそういう書簡があったということを見落としてしまい,掲載に至ってしまったということはあり得るでしょう。つまりシュラーは事前にライプニッツに関する書簡というのを,ほかの編集者たちが知らないうちに抜き取っておいたのだけれど,自身がそういうような書簡があるとは思うに至らなかった2通の書簡に関しては抜き取り忘れてしまったということです。
もしも実際にこのような物語があったのだとしたら,シュラーが事前に書簡を抜き取る好機というのは,スピノザが死んだときであったと思われます。シュラーはこのことを編集者たちの知らないうちになさなければならなかったと同時に,スピノザも知らないうちになさなければならなかったのですから,もしもスピノザの臨終の場にシュラーがいたら,シュラーにとってそれは最大のチャンスだったでしょう。
スピノザの伝記ですから,アムステルダムAmsterdamから来た医師がスピノザに対してどのような処置をしたのかということを記述することには意味があります。しかしその後にスピノザの金銭とナイフをポケットに入れてその日のうちにアムステルダムに帰り,スピノザの葬儀に姿を現さなかったなどということは,スピノザの伝記としての情報としては不要といえます。なのでこのようなことがなぜ事細かに書かれているのかということは僕にとって疑問ですが,ただひとつ確かにいえるのは,この詳細をコレルスJohannes Colerusに伝えたスペイクは,よほどこの医師に対して腹に据えかねるものをもっていたということです。とはいえその理由が,医師のスピノザに対する態度だけであったと断定することはできないのであって,伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaには書かれていないスペイクに対する医師の態度にスペイクは怒りを感じていたので,このようなことをコレルスに伝えたという可能性も考えておく必要があるでしょう。
この医師は伝記の中にはフルネームは伏せられ,LMというイニシャルで示されています。これはスペイクが本名をコレルスに伝えなかったからかもしれませんが,スペイクがこの医師に対して怒りを感じていたのは確実だと僕には思えますので,あえて名前を伏せる必要はなく,もしもスピノザの伝記を書くのであれば,むしろこの医師の行動を事細かにコレルスに書いてほしかったのではないかと思えます。なので本名を伏せてイニシャルで記述したのは,コレルスのこの医師に対する配慮だったのではないかと推測します。いい換えればコレルスは,スペイクに伝えられたことの信憑性に多かれ少なかれ疑問を感じたので,フルネームは記さずにイニシャルで記述したのではないかと思います。コレルスがスペイクの話に対して全体を通してどれだけの裏付けをとっていたのかは分かりませんが,この点は信憑性を欠くところがあるとみていたのは確かであるように思えます。
LMというのはスピノザの友人関係からしてマイエルLodewijk Meyerのことを指していることは疑い得ません。つまりスペイクは,スピノザの死を看取ったアムステルダムから来た医師は,マイエルであるといっていることになります。
ここまでの注意を踏まえて,コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの内容を検討していきます。ただし,『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』に加えられている説明も,完全とはいえない側面がありますから,先にその点を説明していきます。
スピノザがフォールブルフVoorburgを離れてハーグDen Haagに移ったのは,1669年の暮れか1670年早々だったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。先述したようにスピノザはすぐにスペイクの家に間借りをしたのではなく,ウェルフェという寡婦の家に間借りしました。事実上は屋根裏部屋だったようです。ウェルフェはウィレムという法律家の妻だったのですが,ウィレムが死んでしまったので収入を得る必要が生じ,スピノザを住まわせることになったというのがナドラーSteven Nadlerが確定的に記述していることです。
ここに後にコレルスJohannes Colerusが住むことになります。『スピノザの生涯と精神』の訳者である渡辺は,その時点でウェルフェは死んでいたとしています。だから僕もコレルスはウェルフェからは話を聞くことができなかったといいました。しかしナドラーは,コレルスはウェルフェからも話を聞いたとしています。つまりナドラーはその時点でウェルフェがまだ生きていたと考えているのです。スピノザの部屋は実験室であると説明されていますが,スピノザはその部屋で食事をしたり眠ったりもしたのであって,そこに一日中こもっていることもあったという主旨のことをコレルスは書いていて,これはコレルスがウェルフェから聞き取ったことだとナドラーはみているわけです。
僕は渡辺のいっていることの方が正しいのではないかと考えています。ひとつは単純に,コレルスがウェルフェの名前を間違えて記述しているからです。スピノザが住んでいた家の寡婦はウェルフェであったということは,渡辺説でもナドラー説でも一致していますが,コレルスはその寡婦の名前をフェーレンと記述しているのです。もしもコレルスがウェルフェ本人から話を聞き取ったのだとすれば,その人の名前を間違えるということはあり得ないように僕には思えるのです。
もうひとつ理由があって,これはコレルスによるスピノザが住んでいた部屋に関する記述に関連します。
この時代の無神論者ということばは,単に神Deusを信じていない人間,一切の信仰fidesを有していない人間という意味ではありませんでした。むしろ素行不良の野蛮人という意味を帯びていたのです。つまり思想信条上の意味だけをもっていたのではなく,生活のあり方も示すことばでした。たとえばスピノザは書簡四十三において,スピノザの生活を知ったとしたら,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenはスピノザを無神論を説いているとは容易に信じなかっただろうといっていますが,これはある人間を無神論者であると規定するときに,その人間の生活態度が大いに関係していたからです。あるいはベールPierre Bayleの『批判的歴史辞典Dictionaire Historique et Critique』でスピノザに触れられているとき,無神論者であるスピノザが品行方正な人間であったということは奇妙だけれど驚くには値しないのであって,それは福音に心服しながら放埓な生活をしている人びとがいるようなものであるといわれているのは,無神論者であればだれでも放埓な生活を送り,福音に心服していれば,いい換えればキリスト教の信者であればだれでも品行方正であるという社会通念があったからなのであって,ベールはその通念は必ずしも正しいわけではないといっているのです。
スピノザはそれなりに有名人であった筈なので,コレルスJohannes Colerusはスピノザの名前は知っていて,無神論者であるということも知っていたとしたら,コレルスのスピノザに対する印象は,素行不良な野蛮人というものだったかもしれません。とくにコレルスは牧師だったわけですから,そういう印象をより抱きやすかったのではないかと思えます。しかしスペイクから聞いたスピノザの生活態度が,そうした印象とあまりにかけ離れたものであったから,コレルスはそれを書きとどめて人びとに伝えようと思ったのではないかと僕は推測します。つまりコレルスにとって,自分が住んだ場所がたまたま以前にスピノザが住んでいた家だったということは,伝記を書くのに大きな要素を占めていたとは僕は思いません。また,スペイクから聞いたスピノザの逸話が,コレルスがイメージしている通りの無神論者であったとしたら,やはりコレルスは伝記を書くことはなかったのだろうと思います。
『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』の当該部分には,レベッカが故人の姉と記述され,スピノザが死んだスペイクの家のことが,弟の死んだ家と書かれています。しかしこれは僕の推測では訳語上のことです。原文はたぶんレベッカは故人の英語でいえばsisterと書かれ,家の方はbrotherが死んだ家と記述されているものと思います。ただ,故人の姉妹とか兄弟が死んだ家では,日本語としては座りが悪いです。なので訳者である渡辺義雄が,故人の姉,弟の死んだ家という訳を選んだのでしょう。
渡辺が故人の妹と訳さずに故人の姉と訳し,兄の死んだ家ではなく弟の死んだ家と訳したのは,定説に従ったためと思います。少なくとも渡辺は,吉田のように資料を検討してレベッカがスピノザの姉であるか妹であるかを調査したとは思われませんので,渡辺がこれを訳した時点での研究成果に則って,レベッカをスピノザの姉と訳したのは間違いないと思います。ただ定説でそうなっているので,これが誤訳であるという批判はまったく当たらないでしょう。
しかし吉田は,レベッカはスピノザの姉ではなくて妹だったのではないかという説を展開しています。その説がどう展開されているのかを詳しく紹介します。そうしないと僕の結論を示すこともできないからです。
まず吉田は,レベッカがスピノザの姉であった可能性を全面的に否定しているわけではありません。むしろそういう可能性もあったということは認めています。そう考える利点を吉田は次の点にみています。
ミリアムMiryam de Spinozaは1650年に結婚したのですが,1651年に子どもを産んだ後,おそらく産後の肥立ちが悪かったため死んでしまいます。このためミリアムの結婚相手であった男と,幼子が残されてしまいました。この結婚相手だった男はその後に再婚するのですが,この再婚相手がほかならぬレベッカだったのです。幼子が残された男の再婚は,早い方がよかったとすれば,ミリアムが死んでからレベッカと結婚するまでの期間はそれほどなかったと考えられます。レベッカがスピノザの姉であったとすれば,この1651年という時点では20歳前後です。嫁ぐのには問題ない年齢です。