チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが最後にスピノザに出した手紙が書簡八十二です。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。1676年6月23日付でパリから出されました。この時点ではライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizもまだパリにいたのではないかと推定されます。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』ではチルンハウスがライプニッツのために,シュラーGeorg Hermann Schullerに対する紹介状を書いたことになっていて,それはたぶんライプニッツがパリを発つ時点でチルンハウスがパリにいたということを意味していると僕は解します。チルンハウスが所持していた『エチカ』の草稿がステノNicola Stenoの手に渡ったのはローマでのことですから,その後でステノがパリを離れたことは間違いないと思われます。
チルンハウスはこの書簡ではひとつの質問をしています。これは,どのようにして延長Extensioの概念conceptusから事物の多様性がアプリオリに証明されるのかというものです。チルンハウスはスピノザがそのことについて何か考えをもっているのだけれども,そのことを証明したことがないので,それを知りたいと思ったのです。ただ前もっていっておけば,スピノザはそのような仕方で事物の多様性が証明され得るというようには考えていません。そう考えていたのはデカルトRené Descartesで,しかしデカルトは,そのことは人間が認識できる事柄を超越しているのだとして,なぜそうなるのかということの証明Demonstratioはしていません。スピノザは,事物の多様性を証明するためにはデカルトのような方法methodusでは不可能であるというように考えていたのであって,この質問に関しては,チルンハウスがデカルトの見解opinioとスピノザの見解を混同しているといえそうです。
チルンハウスはそれを知りたい理由として,ある事物の本性essentiaからはひとつの特質proprietasだけが導出されるからだとしています。つまりひとつの事物の本性から多様な事物が特質として導かれることはあり得ないとチルンハウスは考えているのです。このことをチルンハウスは数学的な観点から説明しています。ある特定の事物の本性から多数の特質が導出されるということが,たとえばどのようなことであるのかということをチルンハウスは知りたかったということになります。
書簡十三は書簡十一への返信です。当然ながらこちらはオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに宛てられたもの。1663年4月3日付で遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
手紙の前半部分,というかこれは中心部分ですが,この部分はロバート・ボイルRobert Boyleからスピノザへの返事になっています。スピノザがオルデンブルクに宛てた書簡六の中で,スピノザはボイルに対して数々の疑問を投げ掛けていたのですが,それに対するボイルからの返信ということです。ただ,スピノザとボイルの間では,哲学的な立ち位置が異なりますので,この返信がスピノザを納得させられるものであったかどうかは疑問です。いくらボイルが自身の硝石に関する実験の正当性を主張したとしても,スピノザの中心的な関心はそこにあったわけではなかったと思われるのです。
このことに関連してはこの部分の冒頭で,ボイルは硝石に関する哲学的な分析を試みることにあったわけではなく,スコラ学派で受け入れられている通俗的な学説が薄弱な基礎の上に立っているということと,諸物の間にある種差は部分の大きさ,運動motusと静止quies,位置に帰せられることを示すためであったといわれています。つまり,何か正しい哲学的分析の結論を出すということを意図しているわけではなく,単に現に受け入れられている哲学的基盤は,実際には基盤として怪しいということを示す意図であったということです。たぶん現に受け入れられている基盤が怪しいということはスピノザも同意すると思いますが,では実際の基盤が何かということはスピノザには明らかだと思えていたので,それを導こうとしないことには不満を抱いたのではないでしょうか。
後半はオルデンブルクからスピノザに対する質問ですが,これはスピノザの著作が完成したかどうかを問うものにすぎません。この著作は『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』か『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』ですが,畠中はその両方を示しているという主旨の訳注を付しています。
『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』で慣性の法則がコナトゥスconatusとされていることによって,なぜ現実的に存在する個物res singularisがコナトゥスを有するということになるのかということについては,國分の説明をみていきましょう。
ある個物が現実的に存在するということは,その個物を生成し,存在させる方向へ諸々の原因causaが一致して働きをなしたからです。このことは個物が自己原因causa suiではないということから明白といわなければなりません。しかるにこの働きは,外部からそれを妨げる原因が与えられない限りは,慣性の法則によってその状態を維持しようとします。このことは第三部定理四と一致しているといえるでしょう。したがって個物は現実的に存在している以上は,存在し続ける方向へと力potentiaが働くのです。もちろん現実的に存在する個物は,ほかの現実的に存在する諸々の個物の影響を多様な仕方で受けますから,存在し続ける方向へと働く力自体は変化するといわなければなりません。このことは現実的に存在する個物の実在性realitasは,より大なる実在性からより小なる実在性へも移行するし,より小なる実在性からより大なる実在性へも移行することもあるということで,かつもし外部の力が現実的に存在するある個物のコナトゥスを完全に凌駕してしまえば,その個物は存在することをやめてしまうでしょう。すなわち,現実的に存在する人間についていえば,人間は喜びlaetitiaを感じることもあれば悲しみtristitiaを感じることもあり,たとえ悲しみを感じるとしてもそれは実在性すなわち完全性perfectioなのであって,かつ,外部の力に凌駕されてしまうなら,その人間は死んでしまうであろうということです。この人間の例からして,國分がいっていることが成立していることはよく理解できると思います。
したがって,現実的に存在する個物は,必ずいつか現実的に存在することをやめることになるのですが,現実的に存在することになった以上は,その存在を持続するdurare方向へと働く力を,自然界には慣性の法則があるというのと同じ意味で,有していることになるのであって,かつ現実的に存在している間はその力すなわちコナトゥスをもち続けることになるのです。
この部分の考察はここまでです。
スピノザがデカルトRené Descartesの物理学の影響を受けていた一例を示している書簡十三は,1663年7月27日付で,書簡十一の返信としてスピノザからオルデンブルクHeinrich Ordenburgに出されたもので,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
この書簡の最初の部分に,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の出版の経緯が書かれています。これは返信が遅れた事情の説明のために付せられたのですが,もしかしたらこれがないと出版の事情の詳しいことは後世に残らなかったかもしれません。
書簡の本文の全体は,ロバート・ボイルRobert Boyleの実験に関連する事項で占められています。その中に,デカルトと関連する事柄が含まれています。
スピノザはこれより前に,硝石の粒子はより大なる孔においてはきわめて微細な物質によって包まれるということを,真空vacuumすなわち空虚vacuumは存在しないということから論証しました。スピノザがそのように論証しているということはボイルも理解しています。ところがボイルは空虚の不可能性を,仮説としています。スピノザはこの点を不審に考えています。というのはボイルは実在的な偶有性,この偶有性というのはスコラ哲学の用語で,たとえばものの色とか匂いというような性質を意味しますが,スコラ学派ではこの偶有性は実体substantiaから離れた実在性realitasを有するとされていて,これが実在的偶有性といわれ,ボイルはその実在的偶有性を否定しています。それを否定するnegareという点でボイルはスピノザやデカルトと一致するのですが,そうであるなら空虚の不可能性を疑うのはおかしいとスピノザは考えるのです。実体なき量が存在するなら実在的偶有性は存在することになるので,偶有性の実在性を否定するならば実体なき量が存在するということを否定することになり,それは空虚の存在を否定するのと同じことだとスピノザは考えるのです。
もうひとつ,ボイルは自身がデカルトを非難しているとは思っていなかったようですが,ボイルが書いたことと『哲学原理Principia philosophiae』を読み比べれば,ボイルがデカルトの名誉を傷つけないような仕方で,いい換えればボイルの哲学する自由libertas philosophandiに基づいて,デカルトを非難しているのは明白だとスピノザはいっています。ボイルはデカルトのことをおそらく頭に入れずに書いたのですが,それがスピノザはデカルトへの非難と受け止めたということです。いい換えればそれは,ボイルがデカルトの影響を受けていないのに対し,スピノザは受けていたということになるでしょう。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが訪問するという通知をスピノザがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから受け取っていたということは,当然ながらチルンハウスはライプニッツがスピノザを訪問するということを知っていたということを意味します。ここでもう一度,これを時系列で追っていきましょう。
チルンハウスがパリに到着したということをスピノザに伝えている書簡は書簡七十です。これはシュラーGeorg Hermann Schullerからのもので,1675年11月15日付です。パリに着く前にチルンハウスはイギリスを訪ねていて,そこでオルデンブルクHeinrich Ordenburgそしておそらくはロバート・ボイルRobert Boyleと面会しています。この面会で途絶えていたスピノザとオルデンブルクとの間の文通は再開したのですが,オルデンブルクからスピノザに宛てられた書簡六十一は,1675年6月8日付ですでにスピノザに届いています。つまりこの前にチルンハウスはロンドンでオルデンブルクと面会したことになります。
書簡七十には,チルンハウスからの手紙が3ヶ月も途絶えていたので,イギリスからパリへ移る中途で何かよくないことが起こったのではないかとシュラーは心配していたという旨の記述があります。これは,チルンハウスとシュラーの間では,3ヶ月の書簡の不通でシュラーが心配するくらいの書簡のやり取りがあったということを意味する重要な資料だといえます。そしてシュラーは,今,手紙が来たといっていますから,書簡七十は,3ヶ月ぶりの書簡がチルンハウスからシュラーに届いてすぐに出されたものだと分かります。この書簡の中に,パリに到着したチルンハウスがすぐにホイヘンスChristiaan Huygensと会ったことと,ライプニッツにも出会い,『エチカ』の手稿を読ませることの許可を求めているということが書かれているわけですから,実際にチルンハウスがパリに到着したのは,チルンハウスからの書簡がシュラーに届くよりもある程度は前のことだったでしょう。ただしどんなに早くても3ヶ月前ですから,1675年8月より前だったということはあり得ません。書簡六十一が6月8日付ですから,8月にはチルンハウスがパリに到着していたという可能性はあり得ます。書簡七十の内容から,11月ということはないと思われます。
フロムErich Seligmann Frommが『人間における自由Man for Himself』で働きと目標とを関連付けて説明するとき,それ自体では誤りがあるとはいえません。というか,むしろフロムはスピノザの哲学を正しく解釈しているといえるでしょう。ただその妥当性の再考のときにいったように,スピノザの哲学において目標というものを考察する場合に第三部定理六を援用するときには,注意しておかなければならない点があります。
この定理Propositioは,現実的に存在する個物res singularisはそれ自身の現実的有actuale esseに固執しようと努めるconariといっています。このことはその個物が能動的であるか受動的であるかに関係ありませんが,人間にとっての徳virtusとはその人間にとっての能動actioを意味することになるので,フロムがなしている限定では受動的である場合にもこの定理が成立するということを考慮する必要はありません。したがって,現実的に存在する人間は能動的である限りは自己の有に固執しようと努めるということがフロムがここでいっていることの意味になります。するとあたかも現実的に存在する人間は,自己の有に固執するperseverareことに能動的に努めるということになるようですが,これをそのままの意味で理解してしまうと,誤りに陥る危険性があります。ここで努めるというのは,自主的に努力するということを意味するよりも,そういう傾向があるconariというほどの意味だからです。
ただし,現実的に存在する人間が能動的であるとは,その人間がある結果effectusに対しては十全な原因causa adaequataであるという意味ですから,人間が能動的に自己の有の維持に向けて努力をするといういい方が,全面的に誤りであるといえるわけではありません。人間がある事柄に向かって十全な原因として取り組むということを努力するというのである場合は,まさに人間は自己の有の維持に能動的に努力するということにほかならないからです。ただしこのようにいう場合は,人間が何事かに向けて能動的に立ち向かうことはすべて努力といわれなければならないので,能動的に何事かをなすならそれはそれはすべて努力といわれることになります。つまりこの努力は,自己の有に維持することだけに向けられる努力ではありません。いい換えればこの場合は人間はすべての事柄に努力するということになります。
このようにみれば,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』でスピノザが知るためには知っていることを知る必要はないというとき,國分がそれを奇妙な言い回しといっていることの意味がよく理解できるのではないでしょうか。國分はこのことをかみ砕いていうなら,何かを確実に知っているなら,そのことだけで確実性certitudoは明らかだから,自分が確実であるということをさらに知る必要はないということであると指摘しています。つまりここでは國分はこのことを,確実性とは何かということと関連させて考えています。つまり真理veritasのしるしsignumというのは観念ideaの確実性ということと同じであると國分は考えているわけで,その点は僕も同意します。ただ確実性そのものについての考察は,『スピノザー読む人の肖像』の中の『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の考察で示したばかりですから,僕のこの点に関する見解opinioはここでは省きます。
スピノザは当たり前のことをいっているように思えると國分はいっていますが,同時にここで立ち止まってはいけないのです。僕たちが何か確実なことを知ろうとする過程において,それに照合させればそれが真理であるとされるようなしるしを僕たちが追い求めるとすれば,実は僕たちは確実に知るために,自分がそれを確実に知っているということを知ろうとしているのだということをスピノザはいっているのです。なぜなら,すでに得ている何らかの観念について,真理のしるしに照合させて真理であることを確認するという行為は,自分がその観念について確実であるということを知ろうとすることと同じであるからです。
自分がある事柄を確実に知っているということを知ることができるのは,そのことを確実に知っている場合だけです。これはそれ自体で明らかだといえるでしょう。したがって,真理のしるしを追究するということは,ある事柄を確実に知る前に,自分が確実であるということを知ろうとする営為であるといえます。そのようなことが不可能であるのはいうまでもないでしょう。このような意味において,真理のしるしはあるとすれば真理そのものであって,真理のほかに真理のしるしといえるものはなく,それを知ろうとするのは無駄なことなのです。
スピノザの哲学に狂気の居場所が残されているのは,直接的にはデカルトRené Descartesの哲学に対する批判であるといえるでしょう。しかし,現代社会のオペレーションシステムは,デカルトの創作したオペレーションシステムになっているということに注意を払えば,それは単にデカルトに対してだけ通用するものであるというわけではなく,現代社会を生きる僕たちに対しても向けられている批判であるといえます。つまりそれは,現代の僕たちの,理性への過信に対する警鐘であるといえるのであって,僕たちはその観点からスピノザの注意喚起を理解するのがよいと僕は考えます。
僕たちはもしかしたら理性ratioによってすべての狂気を払拭した,あるいは払拭していると思い込んでいるかもしれません。しかし実際はそうではないのであって,第四部定理四および第四部定理四系の文脈から,人間というのは現実的に生きている限りは常に狂気に晒されているのであって,現に狂気を孕みながら生きているということになるのです。もしもそのことに気付かなければ,僕たちは容易に自身の狂気を自身の理性と勘違いしてしまうでしょう。狂気と共に生きている人間が現に存在していると感じることはあるかもしれませんが,そのように感じる人は,往々にして自分はそうではないと思い込んでいるものです。しかし実際には,現実的に生きている人間は多かれ少なかれ狂気と共に生きているのであって,それに例外はありません。そしてそのことを思えば,理性によって真理veritasを探求しようとするときに,強い決意decretumを必要とするのは,デカルトやスピノザの時代だけでなく,現代においても同様であるといえます。むしろ現代の方が,そうした決意が必要とされるのかもしれません。デカルトやスピノザの時代は,理性が確たる地位を築いていなかったがゆえに,真理の探究のためには強い決意が必要とされたのでした。それに対していえば,現代は理性の地位があまりにも確立され過ぎてしまったがために,真理を探究するために強い決意が必要とされるようになったといえるのではないでしょうか。 フーコーMichel Foucaultの『狂気の歴史Histoire de la folie à l'âge classique』に関連する論考はこれだけです。次の考察に移ることにします。