スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

全能と自由意志&第一部定理三三備考一

2024-03-05 19:11:34 | 哲学
 第一部定理一七備考でスピノザが示しているDeusの全能についての主張と,最も関係してくるのが神の意志voluntasの自由libertasに関する主張であるといえます。スピノザはここでも神は本性naturaの必然性necessitasに従って働くagereのであると主張することによって,自由意志voluntas liberaが神の本性essentiaには属さないということを示すからです。これは第一部定理三二系一でいわれていることです。
                                   
 なぜそれが大きく関係してくるのかということはふたつの点から説明できます。ひとつは第二部定理四九系にあるように,スピノザが意志と知性intellectusを同一視しているという点です。このために,知性について妥当することが意志についても同様に妥当することになるのです。したがって知性についての能力potentia,神の全能について妥当することは神の意志についても妥当することになるのです。しかしこのことは,神の本性に自由意志が属すると信じて疑わない人びとに対しては,あまり説得的ではないかもしれません。
 もうひとつは,神が完全であるためには,神が認識したことが事柄がことごとく実現しなければならないのと同じように,もし神が完全であるためには,神が意志したことはことごとく実現しなければならないという点に存します。もしも神の本性に自由意志が属するというのであれば,神はその自由意志によって現にあるものを現にあるのとは異なってあることができるようにすると主張するのでなければなりません。しかし現に真verumであるものは永遠aeternumから永遠にわたって真であるのでなければなりませんから,神が自由意志によって真であるものを偽falsitasにすることができるとか,逆に偽であるものを真にすることができるというのは不条理です。
 このことから,神の本性に自由意志を帰してしまうと,かえって神の完全性perfectioを損なうことになってしまうのです。その説明の仕方が,神の全能についての説明とパラレルな関係にあることは明白でしょう。神は本性の必然性によって働くのであり,そのことによって神は全能であることができ,神の本性には自由意志は属さないのです。

 アインシュタインAlbert Einsteinがスピノザ主義者であったことと,提唱した一般相対性理論において空虚vacuumの存在existentiaを否定したことの間に,何か関係があるというのはさすがに牽強付会であると思います。スピノザは哲学的な観点から空虚を否定したのだし,アインシュタインは物理学的な観点から空虚を否定したのであって,双方において空虚の存在が否定されているということは,結果的な一致にすぎないと解するのが妥当でしょう、ただ,結果的にではあってもそのことが一致しているということは,確かにアインシュタインの物理学とスピノザの哲学との間には親縁性があるということはできるでしょうし,アインシュタインがスピノザ主義者であるということが自称のものではなかったということのひとつの証明であるといえないこともないでしょう。なのでこの部分では,アインシュタインがスピノザ主義者であったということが指摘されていてもよかったのではないかと僕は思います。
 國分はこの後で,空虚の否定negatioがスピノザの哲学全体の中で有している意味を,哲学的観点から考察しています。これは参考に値する論考だと思いますので,ここでは『スピノザー読む人の肖像』でされているよりもやや詳しく探求していきます。
 スピノザは第一部定理三三備考一で次のようにいっています。
 「ある物が偶然と呼ばれるのは,我々の認識の欠陥に関連してのみであって,それ以外のいかなる理由によるものでもない」。
 ここでは國分に倣って,スピノザのこうした主張を一般的に偶然の否定といっておくことにします。
 國分によれば,偶然の否定にはふたつの種類があります。ひとつは,人間には偶然であると感じられるどのような事柄にも,その背後には必然性necessitasがあるということです。そしてもうひとつは,そもそも自然Naturaのうちには偶然は存在しないということです。ここに示した備考Scholiumは,前者の意味で偶然を否定しています。そしてスピノザは偶然の否定について言及する場合には,もっぱらこの意味で偶然を否定していると國分はいっています。僕はそれが確かにそうであるというようには思えませんが,この点についてはここでは論争する意味がまったくありません。
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妥当性の再考&自説の主張

2024-02-24 19:25:28 | 哲学
 第四部序言の中で,スピノザが人間の本性の型を,善悪および完全性perfectioとどのように関係づけているのかということ,そしてスピノザにおける完全性の考え方は優越性の否定と関連しているということはすべて説明することができました。そこでフロムErich Seligmann Frommが『人間における自由Man for Himself』でスピノザについて言及している部分の妥当性を改めて考察していくことにします。だいぶ時間が経ってしまいましたので,すでに考察した部分の復習も含めて,言及の全体を最初のところからみていくことにします。
                                        
 まずフロムは,スピノザの自然Naturaにおけるあらゆる事物の際立った働きと目標を考察し,およそそれ自体において存在するものは,その存在existentiaを維持しようと努めるconariものであるという答えを出しているといっています。文章全体は異なっていますが,ここでフロムが援用しているのが第三部定理六であるのは間違いありませんし,実際に脚注もそのようになっています。文章全体の相違は翻訳の問題もあるでしょうからここでは不問に付します。ただし,フロムがこれをあらゆる事物の際立った働きactioと目標の考察であるという点には異を唱えることもできます。ここでフロムが働きということで何をいわんとしているのかは不明ですが,スピノザの哲学では働きというのは能動actioを意味します。しかし第三部定理六のコナトゥスconatusというのは第三部定理七でいわれているように各々の事物の現実的本性actualem essentiamなのであって,それは事物が能動の状態にあるか受動passioの状態にあるかは無関係に成立します。これは第三部定理九および第三部定理一から明白だといえます。
 とはいえ第三部定理六は,能動状態において成立しないというわけではありませんから,そこのところはフロムが大きく間違ったことをいっているとは僕は思わないです。実際に第四部定義八は,徳virtutemと能動を等置しているわけですから,第三部定理六が人間における徳と関連付けて説明される場合には,確かに第三部定理六は.あらゆる事物の働きに関連する考察であるといえるからです。しかしそれが目標に関連する考察であるという点は,もっと考えておかなければなりません。徳が目標であるということは間違っていないとしても,第三部定理六で努めるといわれるとき,それは努力を意味するわけではないからです。

 以前にも指摘したことがありますが,スピノザは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部の緒論において,デカルトRené Descartesとスピノザの間にある確実性certitudoの指標の差異を説明した上で,明らかに自説を主張しているようにみえます。本来は『デカルトの哲学原理』は,デカルトの哲学の解説書ですから,デカルトの主張にそぐわないことがいわれるのは好ましくありません。好ましくないというより,あってはならないといってよいと思います。もちろんスピノザは用心深く,たとえ自説ではあってもそれがデカルトの哲学の中でも成立する説であるというように説明しているのですが,少なくともデカルトが確実性の主張から神の観念idea Deiを除外することはないのであって,僕にはスピノザがデカルトの哲学の解説書としては行き過ぎた地点まで踏み込んでしまっているように思えます。ただしそれはあくまでもデカルトの哲学の解説書としてはという意味で,僕自身は確実性の指標が十全な観念idea adaequataそのものであって,それ以外の観念を必要とはしないというスピノザの主張に同意します。考察の中で例示した,平面上に描かれた三角形の内角の和についていえば,知性intellectusが平面上に描かれた三角形を十全に認識するcognoscereのであれば,その知性は同時にその図形の内角の和が二直角であるということを肯定するaffirmare意志作用volitioを有するのであり,この観念と意志作用のセット,これは第二部定理四九によってセットなのですが,このセットの観念,すなわち平面上に描かれた三角形の十全な観念の観念idea ideaeもその知性のうちにあることになり,そのことでその知性はその知性が形成している平面上に描かれた三角形について確実であることができると僕は考えます。
 スピノザにとっての確実性にはもうひとつだけ残された問題があります。ここまで説明してきたことからいえるのは,知性がXについて確実であるのは,その知性のうちにXの十全な観念があるという場合です。したがって別のもの,たとえばYについて確実であるためには,Yの十全な観念が知性のうちにある場合ということになるでしょう。このことから帰結するのは,何であれ何かについて確実であるためには,そのものを十全に認識しなければならないということです。
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外見&混乱した観念の観念

2024-02-17 19:06:00 | 哲学
 オルデンブルクHeinrich Ordenburgはスピノザとの面会のためにレインスブルフRijnsburgを訪れる前に,スピノザがユダヤ教会から破門を宣告され,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人共同体から追放されたユダヤ人であるという情報を知っていたという蓋然性がきわめて高いと僕は考えます。ただこれは僕の解釈ですし,何より蓋然性がきわめて高いというのはその可能性が0であったということを意味するわけではありませんから,そのことを知らずにオルデンブルクがスピノザに会った場合のことも一応は考察しておきましょう。
                                        
 面会した以上はスピノザは自身の身の上話もしたと解釈するのが妥当であって,それによってオルデンブルクはスピノザのそれまでの生い立ちを知ったという可能性が高いです。ただこれも可能性であって,オルデンブルクの役回りはスピノザの生い立ちを知ることではなかったのですから,そのことには何の関心ももたず,そのゆえにスピノザにはそのようなことを何も質問しなかったので,スピノザは質問されなかったことには何も答えなかったということもあり得ない話ではありません。ただ,会ったということ自体は事実なのですから,少なくともオルデンブルクはスピノザがユダヤ人であるということは知り得た筈です。というのは,ユダヤ人はユダヤ人に特有の外見をしているからで,それはスピノザをみたオルデンブルクには一目瞭然であったからです。
 このことは後にスピノザと面会したライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの事例から明らかです。ライプニッツはスピノザがユダヤ人であったということ,そしてユダヤ人に特有の外見をしていたということを事細かにメモしています。いい換えればスピノザはそれくらいライプニッツが日常的に交際している人物たちとは異なった外見をしていたのであって,それはオルデンブルクにも同様であったのは間違いありません。
 なので少なくともスピノザがユダヤ人であるということをオルデンブルクは知っていたのです。その上で,書簡三十三ユダヤ人の帰還についてスピノザに質問したのです。

 さらにもうひとつ,注意しておきたいことがあります。現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにXの観念ideaがあるということが神Deusに帰せられるのと同じように,その人間の精神のうちにXの観念の観念idea ideaeがあるということも神に帰せられるということが,第二部定理二〇から帰結するのです。したがってこのことは,Xの観念がある人間の精神のうちにあるとき,その観念が十全な観念idea adaequataであろうと混乱した観念idea inadaequataであろうと同じように妥当します。これは,第二部定理一一系により,人間の精神というのは,神の無限知性 infiniti intellectus Deiの一部であって,観念が神の無限知性のうちにあるとみられる限りでは,第二部定理七系の意味によって十全な観念であるということから明らかだといえます。現実的に存在する人間の精神の本性essentiaを構成する限りで神のうちにXの観念があろうと,現実的に存在するある人間の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があろうと,神のうちではどちらも十全な観念であるからです。
 だから,Xの混乱した観念が現実的に存在するある人間,たとえばAの精神のうちにあるなら,Xの観念の観念もAの精神のうちにあるのです。するとこのことをもって,Aは自分の精神のうちにXの混乱した観念があるということを知ることができるということになりそうですが,これはそれ自体では成立しないのです。なぜかというと,Xの観念の観念は,Xの観念が神に帰せられるのと同じように神に帰せられるのですから,それ自体が混乱した観念であるからです。他面からいえば,Xの観念が,Aの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神に帰せられるのと同じように,Xの観念の観念は,Aの精神の観念の本性を構成するとともにほかのものの観念の観念を有する限りで神に帰することができるからです。したがってAは,自分の精神のうちにXの観念があるということは知ることができるのですが,その観念が十全な観念であるか混乱した観念であるかということは,このこと自体では知ることができません。いい換えればAは,Xが十全な観念であるか混乱した観念であるかを疑うということになるといえるでしょう。
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残された課題&一致と相違

2024-02-10 19:52:34 | 哲学
 第四部定理六五でいわれていることは,善bonumや悪malumが同じ条件で認識されているのなら,理性ratioの導きに従っていようといまいと同じように現実的に存在する人間に妥当します。ですからこの定理Propositioを受けている第四部定理六六にも同じように妥当します。ではなぜこれらの定理で理性に従う限りという条件が付せられているのかといえば,善や悪の大きさが,時間的条件を付せられると,理性に従っていない場合には同じ条件であることができないからです。このことは『エチカ』では様ざまな仕方で説明されているのですが,ここでは一例として第四部定理一六をあげておきましょう。この定理から,現実的に存在する人間は,より大なる未来の悪を排除するより小なる現在の善を選択してしまうことがあるということは明らかだからです。あるいは,第四部序言はこの比較から善悪を規定しているのですから,善よりも悪を選択してしまうことがあるということが明からといえるからです。ただ,第二部定理四四系二によれば,理性はものを永遠の相aeternitatis specieの下に認識するpercipereという本性naturaを有しますから,未来の善も現在の善も同じように永遠の相の下に認識します。つまり同じ条件の下に認識します。ですから現在の小なる善よりも,それによって排除されてしまう未来の大なる善の方を選択するのです。
                                   
 このことが,悪の確知が十全な認識cognitioであり得るということを意味するのは明白です。この場合は,より大なる善もより小なる善も,理性によって十全に認識されているからです。このことから理解できるように,もしも理性がより小なる悪とより大なる悪を十全に認識する限りでは,より小なる悪の方を選択するということがいえることになるのです。ところが『エチカ』は,そのことを否定しているようにみえるのです。なぜなら第四部定理六四は,悪の認識は混乱した認識であるといっているので,より小なる悪やより大なる悪を理性が十全に認識するということはないということを意味しているように思えるからです。つまり,第四部定理六四は,第四部定理六五や第四部定理六六を,部分的に否定しているといえるのではないでしょうか。これを論理的にどう整合性をつけるべきなのかという課題が残されていることになります。

 スピノザの哲学でいわれていることを利用すれば,デカルトRené Descartesが我思うゆえに我ありcogito, ergo sumというときの我が,自分の身体corpusについて何も意味することができず,自分の精神mensについてのみ妥当することは容易に理解することができると思います。
 なお,自分の身体が現実的に存在するということを疑い得るということについては,スピノザも同意することができます。なぜなら,スピノザは第二部定理一九の様式だけによって現実的に存在する人間は自分の身体を認識するcognoscereといっていますが,そのようにした認識される自分の身体の観念ideaは,第二部定理二七にあるように,混乱した観念idea inadaequataであるからです。疑い得るということが何を意味するのかという点に関しては,デカルトとスピノザとの間で相違があるのですが,スピノザは混乱した観念に関してはそれを疑い得ることを認めますので,この点だけはスピノザもデカルトに同意することはできるのです。
 ただし,デカルトが疑い得ないと認めた,自分の精神が存在するということに関しては,スピノザはそれに同意しません。つまりこれについても疑い得るというのがスピノザの結論です。このことは,現実的に存在する人間が自分の精神が存在するということを認識するのは第二部定理二三の様式を通してのみですが,この様式で認識される自分の精神の観念は,第二部定理二九により,やはり混乱した観念であるからです。したがってそれは自分の身体の観念が混乱した観念であるがゆえに疑い得るというのと同じ理由で,疑い得る観念であることになります。ただこれは後に示すように,疑い得るということがどういうことであるのかということに関して,スピノザが独自の考えをもっていることに起因しますので,単にスピノザとデカルトの間には,結論の相違があると理解しておく方が安全です。
 デカルトは最終結論として,疑っている自分の精神が存在するということは疑い得ないのであって,それは絶対的に正しいとしたのでした。この結論に関してさらに注意しておかなければならないのは,精神が存在するというときの存在するということの意味は,たとえば身体が存在するといわれる場合と同一であるということです。
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第一部定理一七備考&吟味

2024-02-02 19:01:29 | 哲学
 スピノザはDeusの全能ということを,普通に考えられているのとは違った様式の下に理解します。これは,一般的にいわれている神の全能は,スピノザからすればむしろ神の全能を疑わせるような内容になっているからです。このことをスピノザは第一部定理一七備考の中で指摘しています。
                                   
 「神を現実に最高の認識者と考えならも,彼らは,神が現実に認識することをすべて存在するようにさせることができるとは信じない。なぜならもしそうなれば,彼らは,神の能力を破壊すると思うからである」。
 ここで彼らといわれているのが,一般的な意味で神が全能であると主張する人びとのことです。こうした人びとによれば,神が知性intellectusのうちに存在することをすべて創造するcreareと,もうそれ以上は何も創造することができないことになります。そのことがそうした人びとにとっては,むしろ神の全能を欠くように思えるのです。だからこうした人びとは,神は最高の認識者であるということを認めながら,一方では神が認識するcognoscereことのすべてを創造することはできず,残余の部分がなければならないというのです。
 これがスピノザには矛盾にみえるのです。最高の認識者であるならば,認識した事柄をことごとくなすというべきなのであって,認識した事柄のすべてをなすわけではないのであれば,むしろそのことが神の全能を欠くことになるからです。なのでスピノザは神の全能を規定するときにも,神は本性の必然性によって働くagereといういい方をします。本性naturaの必然性necessitasによって働く神は,その本性の必然性に則したことはことごとくなすことになるので,神にはなし得るけれどもなさないことがあるという結論が出てくる余地はありません。
 第二部定理七系により,神の本性から形相的にformaliter知性の外に生じるすべての事柄の十全な観念idea adaequataが神の知性のうちにはあります。つまり神は認識するすべてのことを形相的に知性の外にもなすのです。こちらの方が神が全能であるという規定に相応しいというのがスピノザの考え方です。

 それではここからこのことを詳しく探求していきますが,前もって次のことをいっておきます。
 これに関するスピノザの探求は,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部の緒論に含まれています。すでに指摘されていたように,『デカルトの哲学原理』の第一部は,『哲学原理Principia philosophiae』の第一部に対応しているわけではなく,デカルトRené Descartesの哲学の形而上学的部分の説明です。そのために,『哲学原理』だけでなく,『省察Meditationes de prima philosophia』からも多くのものが援用されています。ただ,この点に関するデカルト自身の探求は,『哲学原理』や『省察』より,『方法序説Discours de la méthode』の中にあります。したがって,これに関連するデカルト自身の探求を詳しく知りたいという場合は,『方法序説』を参照してください。
 絶対的に正しいことは何かという問いは,問い自体としてはどう手をつけてよいか分からないような茫洋とした面を含んでいます。このためにデカルトはそれに答えるため,つまり解答を発見するために,問いそのものに直接的に答えるのではなくて,方法論的に解答を導くことを目指します。すなわち,それが絶対的に正しいといえるのかどうかということは別にして,現実的な世界にはこれは正しい,いい換えれば真理veritasであるとされている事柄が多々あります。そこでそのように真理であるといわれている事柄を抽出して吟味し,それが確かに疑うことができないような真理であると結論することができればその事柄は絶対的に正しいといえることができるのに対し,少しでも疑い得る部分があるのであれば,その事柄は絶対的に正しいということはできない,正確にいえば,デカルトによって絶対的な真理であると認められないというような方法を採用します。いい換えれば,デカルトが少しでも疑い得るのであればそれはデカルトにとってこの問いへの解答にはならないのに対し,もしそれはデカルトによってまったく疑うことができないと認められるのであれば,その事柄はこの問いの解答であるということです。
 これは真理とされているあらゆる事柄を疑うことによって吟味するという方法なので,方法論的懐疑doute méthodiqueといわれます。関連事項として後に説明しますが,スピノザはこれには否定的です。
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第三部定理三二備考&『スピノザー読む人の肖像』

2024-01-27 19:09:35 | 哲学
 第三部定理三二備考の冒頭部分というのは,次のようになっています。
                                   
 「このようにして,人間の本性は一般に,不幸な者を憐れみ幸福な者をねたむようにできていること,しかも(前定理により)他人の所有していると彼らの表象するものを彼らがより多く愛するに従ってそれだけ大なる憎しみをもってねたむということが分かる」。
 前定理といわれているのは第三部定理三二のことです。
 この部分ではねたみinvidiaが憎しみodiumと関連付けられていますが,第三部諸感情の定義二三にあるように,ねたみは憎しみの一種なので,それが憎しみと関連付けて説明されることに不自然なところはないと解さなければなりません。すなわち僕たちの現実的本性actualis essentiaは一般的に,幸福な人間,とくに自分が手に入れていないような幸福を手に入れている人間のことを憎むようにできているということになります。ただしここで幸福といわれているのは,他人をねたむ人間からみたときの幸福なのであって,ねたまれる人間からみられる幸福ではありません。つまり,Aという人間がBという人間が入手していない何かを入手しているからといって,Aは必ずしも幸福であるとは断定できませんが,BがそれによってAは幸福であると表象するimaginariのであれば,BはAのことをねたむ,あるいは同じことですが憎むのです。
 一方,憐れみは憐憫commiseratioのことであり,第三部諸感情の定義一八は,憐れまれる人の観念ideaを伴った悲しみtristitiaと読むこともでき,その限りでは第三部諸感情の定義七によりこれも憎しみの一種です。ただし,実際には憐憫は悲しみの一種ではあっても憎しみの一種ではありません。この定義Definitioでいえば,僕たちが一般的に憎むのは害悪を与えたものに対してなのであって,そうした害悪を与えられたと表象する他人,つまり憐れまれる人に対してではないからです。

 9月27日,水曜日。この日に1冊の本を読み終えました。國分功一郎の『スピノザー読む人の肖像』という本です。2022年10月22日に岩波新書から発刊されたもので,僕が読んだのは同年12月5日に出た第2刷です。売れ行きがあったので増刷されたということで,内容に変化があるわけではありません。
 國分の本を読むのは3冊目です。最初に読んだのが『スピノザの方法』で,これは専門書といえる内容です。次に読んだのは『はじめてのスピノザ』で,これは入門書でした。この本はどちらかといえば『はじめてのスピノザ』の方に近い内容ですが,入門書といえるようなレベルは少し超えていると思います。ただ,『スピノザの方法』を読みこなすためには一定程度以上のスピノザの哲学に対する知識が要求されるのに対し,この『スピノザー読む人の肖像』は,そこまでの知識を要求されているわけではありません。むしろ入門書程度の知識があれば十分に読みこなすことができるでしょう。そういう意味でいえば,『はじめてのスピノザ』でスピノザについて基礎的な知識を得た人が,さらにステップアップするために『スピノザー読む人の肖像』も読むということが念頭に置かれているような気がします。入門書を書いたのと同じ人がそこからステップアップすることができる本を書いているわけですから,この順番で読んでいけばすんなりと國分のいわんとしていることが入ってくるのではないかと思います。なので『はじめてのスピノザ』を読んだという人に対しては,強く推奨したい本です。
 序章を除くと7章からなっていて,それぞれの章にスピノザの書物が割り当てられています。第一章が『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』,第二章が『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』と『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』,第三章が『エチカ』の第一部,第四章が『エチカ』の第二部と第三部,第五章が『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』,第六章が『エチカ』の第四部と第五部,第七章が『ヘブライ語文法綱要Compendium grammatices linguae hebraeae』と『国家論Tractatus Politicus』です。スピノザの人生について何も語られていないかというとそういうわけではなく,これらが書かれた当時の状況なども織り込まれています。
 明日からは僕が気になったところを考察していきます。
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優越性の否定&妹の健康診断

2024-01-20 18:58:51 | 哲学
 第四部序言で,スピノザは完全性perfectioを人間の本性の型と関連付けた後で,ひとつだけ注意を与えています。この注意で第四部序言はそのすべてを終えます。
                                   
 スピノザは完全性を実在性realitasと等置します。実在性というのはpotentiaという観点からみた本性essentiaのことを意味しますので,スピノザにとってあるものの完全性というのは,そのものがある仕方で存在しまた作用する限りにおいて,そのものの本性のことを意味します。いい換えれば,ある事物の完全性とその事物の現実的本性actualis essentiaは同一のものであるとスピノザは解します。
 このときスピノザは,それを持続duratioと関連させては考えません。つまり,あるものが別のものと比べたときに,より長い時間にわたって現実的に存在したからといって,その事物が別の事物よりも完全であったというようには認めません。これは,スピノザが事物の完全性と事物の現実的本性を等置していることからの,必然的な帰結であるといえます。なぜなら,事物の持続,すなわちその事物がどれだけの間にわたって現実的に存在するのかということは,その事物の現実的本性に含まれているわけではないからです。むしろ第三部定理四にあるように,現実的に存在する事物はほかの事物によって滅ぼされる,あるいは同じことですが持続を停止させられるのであって,それ自身の現実的本性によって持続を停止するわけではないのです。
 第三部定理七にあるように,現実的に存在する事物は,より完全であるといわれようとより不完全といわれようと,同じようにそれ自身の現実的存在に固執するperseverareコナトゥスconatusを有します。そしてその存在existentiaに固執する力は,より完全であるといわれる事物であろうとより不完全といわれる事物であろうと,存在を開始するときから存在が終焉するまで同等です。いい換えればこの点においてはすべてのものが同等といわれなければなりません。
 このことはスピノザがある事物がほかの事物に対して優越的であるということを否定するnegareことと関連します。人間であろうと馬であろうとあるいは三角形であろうと,現実的に存在するなら各々の力でその現実的存在に固執するのですから,あるものがほかのものに対して優越的にeminenter完全であるということはできないのです。

 僕は右下と左下の歯には被せ物をしています。このうち,右下の歯に関しては,被せ物をした部分が浮き上がってきているように以前から感じていました。しかし僕が感じていたように,そこの部分が浮き上がっていたわけではなく手前の部分が沈んできていたために,僕には相対的に被せ物をしている部分が浮き上がってきているように感じられていたのです。
 7月22日,土曜日。この日は妹のグループホームがある地区の盆踊りがありました。盆踊りは開催されたようですが,妹を含めた利用者は参加しなかったとのことです。
 7月27日,木曜日。この日はふたつの郵便物がありました。ひとつは妹の重度障害者医療証です。これはこの年の8月1日から利用するようになるもので,期限は来年の9月30日までとなっています。もうひとつは妹が通所施設で受けた健康診断の結果です。要精密検査となっていました。
 異常とされていたのは3点です。まず脂質検査で,LDLコレステロールが非常に低いとされていました。しかし下限値が60㎎/㎗のところ,58㎎/㎗ですから,非常に低いといわれるほどではないと思えます。数値自体も前々回より前回,前回より今回と改善してきています。
 ふたつめは貧血です。血色素量が12.1g/㎗のところ10.8g/㎗ですからとても低いです。これは以前に服用していた鉄剤を,みはりいぼ痔に悪影響だから取り止めた影響です。これはまた服用を始める可能性があります。
 最後に肝機能です。γ-GTの上限値が50U/Lのところ,78U/Lとなっていました。ただしこの点に関しては,わずかに異常を示しているけれども,とくに問題はないとの所見でした。つまり精密検査を必要とするのは,脂質と貧血ですが,脂質は僕の判断で,精密検査までする必要はないいだろうとしました。一方,貧血については,本牧脳神経外科でも血液検査を受けることがありますから,そのときに医師から指摘されることがあります。なので精密検査を受けるのではなく,本牧脳神経外科の医師にまた指摘されたときに,相談することにしました。ですからこのような結果が報告されましたが,妹は精密検査自体は受けていません。
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情報&台風の影響

2024-01-13 19:36:11 | 哲学
 スピノザがアムステルダムAmsterdamのユダヤ教会から破門の宣告を受け,その宣告に従って当地のユダヤ人共同体から離脱したことは,アムステルダムのユダヤ人にとってだけでなく,オランダ人にとってもスキャンダルとして受け止められていました。オルデンブルクHeinrich Ordenburgが訪問したのは,そういう時期のアムステルダムであったことになります。
                                        
 オルデンブルクは前々からスピノザのことを知っていたというわけではなくて,アムステルダムで情報を収集しているうちに,スピノザのことを知ったのです。これは史実としてほぼ確定的にいえることですが,仮にそうでなかったとしても,ここでは書簡三十三との関係で,オルデンブルクはスピノザがユダヤ人共同体から追放されたユダヤ人であるということを知らなかったのではないかという疑問を解決するために考察しているのですから,このことを史実であるとしておいた方が,考察としての意義は上がります。前々から知っていたのであれば,スピノザがどのような人であるのかということについてはオルデンブルクは知っていたということになりますから,問題としている点は解決されるからです。
 スピノザを知らずにオルデンブルクがアムステルダムを訪問し,アムステルダムで情報を収集しているうちにスピノザのことを知ったとするならば,スピノザの破門とその受諾が当地のスキャンダルであった以上,オルデンブルクはそのこともその時点で聞き及ぶに至ったとするのが自然です。オルデンブルクは学術関係の情報を収集していたのですから,スピノザの出自はオルデンブルクにとってはどうでもよいことだったでしょう。他面からいえば,スピノザがそういう出自をもつ人であったからオルデンブルクがレインスブルフRijnsburgまで出掛けていったという可能性はありません。それらの情報を収集しているうちに,スピノザという哲学に秀でた人間であるということを知ったから,オルデンブルクはレインスブルフまで行ってスピノザに会ったのです。しかし,哲学に秀でた人間であるという情報だけがオルデンブルクに収集され,出自については何も情報を集められなかったとするのは著しく不自然です。オルデンブルクに情報を供給した人は,スピノザの出自についても教えるであろうからです。だからオルデンブルクはスピノザと会う以前に,出自について知っていたというのが,可能性としてはきわめて高いといわなければなりません。

 5月22日,月曜日。電気のメーターの交換がありました。これは業者が行うものですから無料です。ただ,僕が在宅している時間に交換する必要があったようで,日時については事前に通知がありました。
 5月25日,木曜日。総講お寺に行きました。25日は本門仏立宗の開祖の命日にあたるので総講が催されることになっています。
 5月26日,金曜日。О眼科に網膜症の検査に行きました。この日は網膜症の検査だけでなく,視野の検査も行いました。順序は視力および眼圧の検査の後に視野の検査,それから散瞳のための目薬を挿して,瞳孔が開くのを待った上で医師による診察となり,この診察の間に網膜症の検査が行われます。網膜症も緑内障も変化はありませんでした。なので検査を継続してくこととなり,治療には入っていません。
 5月31日,水曜日。昨年度の妹の預かり金精算書が送付されてきました。
 6月1日,木曜日。妹の預り金精算書というのは僕の同意書を必要とする書類です。ですからこの日に同意書を郵送しました。
 6月2日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。そのままО眼科で診察を受けました。妹の視力ですが,最初にこの眼科を受診したときと変わっていません。これは白内障が進行していないことを意味します。ですからこのまま経過を観察していくことになりました。実はこの日は横浜に台風の影響があって,強風の上に大雨という悪天候でした。たぶんこの天候が関係したものと思いますが,いつも混雑しているО眼科がこの日はとても空いていました。僕もО眼科で網膜症の検査などを受けているわけですが,この日くらい空いていたことはありません。妹が診察を受ける場合は午後7時ごろに帰宅するということもあるのですが,この日は午後5時40分には帰ることができました。通所施設から直に帰ってくると帰宅時間は概ね午後4時20分になります。眼科で目薬の処方箋を出してもらう場合は午後5時から午後5時半の間になります。それと比べればどれほどすぐに検査ができたのかがお分かりいただけると思います。
 6月4日,日曜日。妹をグループホームに送りました。
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慰留工作&返信の理由

2023-12-27 19:09:31 | 哲学
 破門の宣告を受けたスピノザに対して,将来にわたって生活を保証するので悔悛してユダヤ人共同体に残るようにとの慰留工作が行われたという説があります。こうしたことは記録として残っていませんから史実とはいえませんが,その慰留は大いにあり得たと僕には思えます。
 スピノザの破門は,ウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaのスキャンダルの記憶がまだアムステルダムAmsterdamの人びとに残っていてもおかしくない時代のことです。この当時のアムステルダムのユダヤ人共同体には,スピノザの父のように,スペインやポルトガルなどから迫害によって逃れてきた人々が少なからず存在していました。そうした人びとにとって,スキャンダルは起きてほしくない出来事だった筈です。なぜならユダヤ人共同体の中でこうした事件がたびたび起こるなら,アムステルダムでユダヤ人を迫害する理由になり得ると想像されたからです。スペインやポルトガルでの迫害は宗教的な意味合いであって,かれらはスキャンダルによって追放されたわけではないとしても,追放の口実をアムステルダムあるいはオランダの当局に与えることはかれらにはマイナスであるのは明らかで,だからそれを避けたいと考えるユダヤ教会の指導者がいたとしても,不自然ではないでしょう。スピノザはダ・コスタのように自殺はしませんでしたが,ナイフで襲われるということはあったのであって,スキャンダラスな事件は現に起こり得る状況だったのです。だから,スピノザにユダヤ人共同体にとどまることを求める慰留工作があったとして,それは十分に合理的に説明することができることなのです。
 仮にそれが史実だったとして,もしもスピノザが慰留を受け入れてユダヤ人共同体に留まれば,何らかの記録が残されている筈で,そうした工作が史実であったかどうかも確定することができたでしょう。しかしスピノザは破門宣告を受け入れてユダヤ人共同体を去ったのですから,仮に事前に慰留工作があったとしても,その記録が残っていないことが著しく不自然であるというようには僕には思えません。なので具体的にどういうものであったのかはともかく,何らかの慰留工作はあったのではないかと僕は推測しています。

 スピノザがステノNicola Stenoに返信を送らなかったのは,おそらくそうしたくなかったからです。ローマカトリックの信者がその立場からいうことに対して何か反論をしても,それが受け入れられる余地はないということをスピノザは理解していたのでしょう。だから,アルベルトAlbert Burghに対してもスピノザは本当は返信を送るつもりはなかったのです。ただスピノザはアルベルトの父であるコンラート・ブルフとは懇意にしていて,世話になったこともありました。アルベルトはコンラートを含むアルベルト家の人びとに対して,カトリックに改宗して以降は多大なる迷惑をかけていたと伝えられています。迷惑を蒙ったアルベルト家の人びとから依頼されたので,アルベルトへの返信となる書簡七十六を,本意ではなかったけれども送ったというのが本当のところでしょう。そのことはこの書簡の内容からも窺うことができます。このためにこちらの書簡は残され,それが遺稿集Opera Posthumaに掲載されることになったので,アルベルトからスピノザに送られた書簡六十七も遺稿集に掲載されたということだと思います。それでもこれらの書簡が掲載されることにより,スピノザとローマカトリックとの関係があまりよくなかったということは,早い段階で知られることになったのです。
                                        
 ステノやアルベルトがスピノザに対して書簡を送ったのは,ローマカトリックの上層部からの指示があったからだといわれています。たぶんこうした指示がなければ,これらの書簡が送られることはなかったでしょう。ステノもアルベルトもスピノザのことを知っていたので,スピノザに書簡を送ることができました。もしもほかにカトリックの信者でスピノザの知り合いがいたら,そうした人からもスピノザに書簡が送られていて,それは現在になっても発見されていないという可能性はあります。ただ,書簡が送られたのはこうした指示があったからなのはたぶん事実で,それがなければアルベルトはスピノザに書簡を送るということは思いつかなかったでしょう。ステノはたぶんスピノザがそうであったように,スピノザに対してカトリックの立場から書簡を送りたいとは思っていなかったのではないかと僕は考えます。
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悪の認識&行い

2023-12-19 19:34:31 | 哲学
 第四部定義二のように,malumが善の否定であるとすれば,悪の確知が十全な認識cognitioであり得るということは分かりました。ただ,第四部定理六六を論理的に裏付けるためには,これだけでは十分ではありません。この定理Propositioでいわれていることのうち,より小なる現在の善bonumよりはより大なる未来の善を欲求するということは,各々の認識が十全な認識であり得るから,より大なる未来の善の否定negatioとなる現在の善が悪とみなされるということも十全な認識であり得るので,この部分は問題ありません。しかし,より小なる現在の悪より小なる未来の悪を欲求するという点については,解決していません。第四部定理六四によれば,悪の認識は十全な認識ではあり得ないのですから,それが理性ratioによって認識されるということはない筈です。であればなぜ理性の導きに従って,より小なる未来の悪をより大なる現在の悪よりも欲求するということができるのでしょうか。この場合,比較の上では未来の小なる悪は善であるといわれなければならないのはその通りですが,小なる悪はそれ自体では悪なのですから,それが理性によって認識されるということは,むしろ論理的に否定されているからです。
                                   
 これを解決していくために,まず次の点を確認しておきます。
 第三部定理九にあるように,僕たちのコナトゥスconatusは,僕たちが事物を十全に認識するcognoscereときにも混乱して認識するときにも,同じように働きます。したがって,より小なる悪の認識とより大なる悪の認識が,同じ条件で僕たちの精神mensのうちに発生するのであれば,僕たちは必ずより小なる悪の方を欲求するのです。第四部定理六六は,第四部定理六五を明らかに受けているのですが,第四部定理六五でいわれていることは,ふたつの善,またふたつの悪が同じ条件の下に与えられる限りでは,理性の導きに従っているか従っていないかということと無関係に僕たちに発生します。ここで理性の導きという条件が付せられているのは,条件が同一でない場合が考慮されているからです。そしてその条件が時間tempusに関係する場合が,第四部定理六六でいわれているのです。このことを踏まえて考察することになります。

 敬虔pietasであるということは,聖書が教える通りにあることを意味します。よって,新約聖書が敬虔であることを人びとに教えているのであれば,敬虔である人間がキリスト教徒で,そうではない人間はキリスト教徒ではないということができます。そして実際にスピノザはそう解釈します。よって,極端にいえば異教徒であってもキリスト教徒といい得る人間が現実的に存在するというようにスピノザはいうのです。つまり,イエスがキリストすなわち救世主であるということを肯定しないとしても,実生活の上で敬虔であるならその人はキリスト教徒であり,逆にたとえイエスがキリストであるということを肯定していても,敬虔な生活を送っていないのであれば,その人をキリスト教徒ということはできないというのが,スピノザの基本的な解釈です。
 敬虔であるということは,現に神Deusを愛し,また現に隣人を愛するということだけを示すのであって,これは実際のそうした行いによって示されます。ですからある人間がいくら自分は敬虔であるといったとしても,それだけでその人間が敬虔であると断定できるわけではありません。実際にはそうではなくてもそうであるということが人間にはありますし,もっといえば,敬虔とは程遠いような生活を送っていたとしても,自分は敬虔であると思い込むことができるのが人間であるからです。また,神を愛し隣人を愛するということは,たとえば熱心に教会に通うというようなことを意味するのではありません。神を愛し隣人を愛するということは,宗教的なことを,あるいは宗教的なことだけを意味するわけではないからです。熱心に教会に通っても隣人をまったく愛さないというようなことはあり得るのであって,そうした人間のことを敬虔な人間であるということができないのは,ここまでいってきたことからも明らかでしょう。そして敬虔な人間のことをキリスト教徒というのであれば,そのような人間はたとえ熱心に教会に通うとしても,キリスト教徒とはいえないということになるのです。
 なので,敬虔であることができる人間というのがどのような人間であるのかが重要です。それがキリスト教徒といわれるからです。
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完全性&自然権の制限

2023-10-31 19:02:09 | 哲学
 悪の確知に関してはまだ考えなければならないことが残されているのですが,少なくともそれが十全な認識cognitioであり得るということは分かりました。なので第四部序言でスピノザが人間の本性の型と関連付けて善bonumと悪malumについて言及しているとき,それは十全な観念idea adaequataである,あるいは十全な観念であり得るというように解釈して,さらにスピノザが何をいっているのかをみていきます。
                                     
 スピノザはこの後で,この人間の本性natura humanaの型を,善悪だけでなく完全性perfectioとも関連付けます。そこでいわれているのは,人間がこの本性の型により多く近づく限りにおいてその人間のことをより完全といい,より少なく近づく限りにおいてその人間のことをより不完全というということです。ここで注意しておかなければならないのは,人間がより不完全といわれるのは,人間の本性の型により少なく近づく限りにおいてなのであって,人間の本性の型から遠ざかる限りにおいてではないということです。ではなぜそのようにいわれなければならないのかといえば,現実的に存在する人間がより大なる完全性からより小なる完全性に移行するとか,より小なる完全性からより大なる完全性に移行するといわれるとき,これは前者は第三部諸感情の定義三により悲しみtristitiaを,後者は第三部諸感情の定義二により喜びlaetitiaを意味するのですが,そうした喜びも悲しみも,ある本性ないしは形相formaから別の本性ないしは形相に変化するという意味ではないからです。たとえば馬の本性が人間の本性ないしは形相に変化するということは,馬がゴキブリの本性ないしは形相に変化するのと同じ意味で,馬が馬ではなくなるということを意味するのであって,それでは馬の本性の型により多く近づいているともより少なく近づいているともいえません。つまり馬がより完全であるともより不完全であるともいえないのです。
 したがって,ここで人間の本性の型により多く近づくとかより少なく近づくとかいわれているのは,近づく人間の本性の力potentiaについてそういわれているのです。つまりその人間の力が増大しているか減少しているかがいわれているのです。いい換えれば事物の完全性,すなわち第二部定義六により実在性realitasとは,力という観点からみられた事物の本性なのです。

 政府が市民Civesに対して優っている度合いに相当するだけの権利juraしか有し得ないのは,僕の考えでは当然であるように思えます。このことは,乳児が泣くことが乳児の自然権jus naturaeに属するということから考えれば明白でしょう。どのような政府であっても,乳児が泣かないようにする権利を有するということはできないからです。他面からいえば,乳児に対して泣かないように要求するということは,乳児に対して不可能なことを要求しているに等しいからです。そしてこのようなことが,諸個人の自然権に対して適用されるのです。これは僕がいっている受動的自由に関連することですが,ある種の受動passioに対して政府が市民に対してその自由libertasを制限するということは,実際には政府が市民に対して不可能なことを要求しているに等しいのです。ですから仮に政府が市民に対してそうした要求をしているとしても,市民はその自然権を行使することになるでしょう。
 したがって政府が市民に対して力potentiaを発揮するのは,市民の自然権が拡充するような方向である必要があるのです。そしてそのようにすることで,国家Imperiumの平和paxも道徳心も保たれまた発展していくことになるのです。スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の冒頭で,哲学する自由libertas philosophandiを認めても道徳心や国の平和は損なわれず,むしろそれを制限したときにそれは損なわれるのだという意味のことをいっていますが,それはまさにこの哲学する自由が市民の自然権に属するからです。そしてスピノザのこうした哲学的な自然権を考えることが,具体的なスピノザの政治論を導くことになるであろうと僕は考えます。
 ここまでに示してきた例でいえば,養育者が乳児を養育することは養育者の自然権に該当します。そしてより多くの人が協力して乳児を養育することで,その自然権というのは拡充します。政府が乳児の養育に対して何らかの支援をする,つまり社会福祉の政策としてそれを実行するのであれば,それは養育者の自然権が拡充されるがゆえにそうした政策が実行されるべきである,あるいはそうした政策が実行されるのが好ましいとされなければなりません。単にそれが政府にとって有益であるという観点からなされてはならないのです。
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第四部定理六二&観念と意志作用

2023-09-25 19:31:12 | 哲学
 僕は第四部定理六六証明の中で,第二部定理四四系二により,ものを永遠の相の下に知覚することが理性の本性に属するDe natura Rationis est res sub quadam aeternitatis specie percipereので,理性に従うことによって生じる感情affectusは,それが現在と関係していようと未来と関係していようと同一であるがゆえに,より小なる現在の善bonumよりもより大なる未来の善を欲求するし,より大なる未来の悪malumよりはより小なる現在の悪を欲求するようになるといいました。このことを感情に訴えることによって証明することができるのは,第四部定理六六でいわれている欲求するというのが,欲望cupiditasという感情にほかならないからです。つまりこの証明Demonstratioはこのような訴求の仕方で瑕疵はないことになります。
                                   
 このことから理解することができるのは,このことは必ずしも感情だけに限定されるわけではないということです。永遠の相の下に事物を認識するcognoscereことが理性の本性に属するのであれば,理性に従って事物が認識される限り,それは現在と関係していようと未来と関係していようと,あるいは過去と関係しているとしても,それはそうした時間tempusによっては説明され得ないのですから,すべて同じように認識されることになるでしょう。つまり理性に従っている限りで同一であるといわれるのは,感情に限ったことではなく,観念ideaそのものについても同様なのです。
 『エチカ』にはそれを示した定理Propositioがあるのであって,スピノザは第四部定理六六を証明するときにはその定理を援用しています。それが第四部定理六二です。
 「精神は,理性の指図に従って物を考える限り,観念が未来あるいは過去の物に関しようとも現在の物に関しようとも同様の刺激を受ける」。
 もうすでに証明されているので,それ以上のことは不必要でしょう。僕たちが理性に従って認識する事柄は,時間によって説明されるような観念であったり感情であったりはしません。よってそうした時制と無関係に,僕たちを同様に刺激するafficereことになるのです。

 一端が固定されもう一端が運動することによって形成される図形の観念ideaは,円の観念と結びつくからそれを概念するconcipere知性intellectusのうちで真verumであるといわれるのであって,単に直線の観念としてみれば誤った観念idea falsaといわれなければなりません。これはつまり,直線についてこの運動motusを肯定するaffirmareことは,円の真の観念idea veraを有する限りで真であるといわれなければならないというのと同じです。そしてこの肯定affirmatioが,スピノザの哲学では意志作用volitioといわれるのです。
 これでみれば分かるように,一端が固定されもう一端が運動するということを直線について肯定する意志作用というのは,円の真の観念がなければあることも考えることもできない意志作用であることになります。この肯定は円の観念については肯定することができますが,円以外の何らかの事物の観念を肯定するということはできないからです。一方,円の真の観念は,こうした直線の運動を肯定する意志作用がなければあることも考えることもできません。これ以外の様式で知性が円を概念するということ,あるいは同じことですが,知性が十全な原因causa adaequataとなって円を概念するということはできないからです。よって,円の真の観念と,直線について一端が固定されもう一端が運動するということを肯定する意志作用は,一方がなければ他方が,他方がなければもう一方が,あることも考えることもできない関係にあることが理解できます。これはちょうど第二部定義二により,事物と事物の本性essentiaの関係と同じです。この場合でいえば,一端が固定されもう一端が運動することによって形成されるということは,それが知性によって認識される限りは円の形相的本性essentia formalisであるのですから,なおのことこの関係と同一であるということが理解しやすいだろうと思います。つまり,円の真の観念と円を肯定する意志作用は同一のものです。ですから,円を肯定する意志作用が円の観念を超越して,円の真の観念の起成原因causa efficiensとなることはできないのです。そしてこの関係が,あらゆる個別の観念とそれらの観念を肯定したり否定したりする個別の意志作用との間に成立します。だから一般に任意の意志作用がある観念の原因であることはないのです。
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第四部定理六六系&帰する

2023-09-19 19:13:38 | 哲学
 第四部定理六六には系Corollariumが付せられています。そちらも紹介しておきましょう。
                                   
 「理性の導きに従って我々は,より大なる未来の善の原因たるより小なる現在の悪を欲求し,またより大なる未来の悪の原因たる小なる現在の善を断念するであろう』。
 定理Propositioでは小なる善bonumと大なる善malum,大なる悪malumと小なる悪が対比されているのに対し,系の方では大なる善と小なる悪,また小なる善と大なる悪が対比されていることになります。
 このことは,第四部序言および第四部定義一第四部定義二から明らかであるといえます。というのは,僕たちが有益であると確知するcerto scimusものが善であるといわれるのであれば,もし現在の悪を受け入れることによって未来の善を手に入れることができるのであれば,この現在の悪はむしろ善といわれなければなりません。同様に,もしも善を所有することの妨げになるものが悪といわれるのであれば,現在の善を入手することによって未来による大きな悪を被らなければならないとすれば,現在の善はむしろ悪といわれなければならないからです。そして第四部定理一九にあるように,人間は善を希求し悪を忌避するような現実的本性actualis essentiaを有しているのですから,未来の善の原因causaであるような悪についてはそれは実際には善であるから希求することになりますし,未来の大なる悪の原因となるような現在の善についてはそれは実際には悪であるとみなすのでそれを忌避するあるいは断念するということになるでしょう。
 未来の善とか現在の善といわれているのは,それ自体では第四部定理八により喜びの認識cognitioで,未来の悪とか現在の悪といわれているのはそれ自体では悲しみの認識です。ですが,未来の善の原因である現在の悪は,悲しみの認識ではあっても善であり得ますし,未来の悪の原因である現在の善は,喜びの認識ではあっても悪であり得るのです。

 なぜreferreをおしなべて帰すると訳すべきなのかということについて,河井は,この動詞は,事態の原因causaなり根拠なりに遡ることを要求する表現であるからだといっています。僕はこの点に関しては河井に同意します。ただし,遡るということは,ある結果effectusの原因,その原因,さらにその原因という具合に遡及するという意味を含んでいます。僕は考察の過程で示したように,このような考え方はスピノザの哲学にとって妥当でないと考えますから,それは僕にとってはとくに重要な意味を有するわけではありません。したがって,関係するということよりも,帰するという動詞の方が,原因なり根拠なりを要求するという点が僕にとっては重要です。第二部定理三二は,平行論を前提とする定理Propositioであって,そのゆえにここには何らかの因果関係が含まれているという河井の指摘は的確なものだと僕は考えているからです。
 スピノザの哲学では,僕たちの思惟作用自体が,自然Naturaの一部とみなされるので,神の観念idea Deiなしには僕たちの認識cognitioは成立しません。これは,第一部定理一五で,神なしには何ものもあり得ずまた考えられないnihil sine Deo esse, neque concipi potestといわれていることから明白です。すなわち,神なしには何も存在できないというのと同じように,神の観念なしには一切の観念あるいは思惟作用は存在することができないのです。なので,真の観念idea veraがあるとか,僕たちが事物の真の観念を有するということは,神の観念に訴求されることによって証明されるのでなければなりません。すなわち,ある人間の精神mens humanaの本性essentiaを有する限りで神のうちにXの真の観念があるといわれるとき,その人間の精神のうちにXの真の観念があるということが保証されるのです。
 よって,第三部定理三二は,すべての観念は神に帰せられる限り真verumである,と訳された方が,神が真の観念の原因となっているということが理解しやすくなるでしょう。僕が示したこの定理の意味でいえば,僕たちの精神のうちにある誤った観念idea falsaは,神に帰せられるのであれば真の観念であるといわれれば,その観念の原因としての神に訴求されているということが理解しやすくなります。つまりこの定理の意味にさらに近づくのです。
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スキャンダル&最近原因としての神

2023-09-05 19:42:31 | 哲学
 オルデンブルクによるスピノザ訪問の目的は,学術的なものでした。だからスピノザがユダヤ教会から破門されたユダヤ人であるということを知らずにオルデンブルクがスピノザに会いにいったというのは,可能性としてはないわけではありません。ないわけではありませんが,きわめて低かったという想定はできます。オルデンブルクはスピノザを訪ねる前に,アムステルダムAmsterdamで情報を収集していましたから,この頃のアムステルダムの状況を再確認しておきます。
 1623年に,アムステルダムのユダヤ教会はウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaを破門しました。この破門は1633年に解かれています。これは驚くようなことではなくて,当時のアムステルダムのユダヤ人社会において破門というのは一種の警告であって,解かれることが前提であったのです。むしろこれほど長く破門が継続したのが異例でした。これはユダヤ人社会には政治的権力というものがあったわけではないので,宗教的方法に依拠しなければ,ユダヤ人社会の内部の問題には対処できなかったためです。
 ところがダ・コスタは甥の告発でまたすぐに破門されてしまいます。この破門は1940年まで続きました。ダ・コスタは破門を解いてもらうために,会堂の中央で懺悔文を読まされた後,裸で柱に縛り付けられ革の鞭で39回叩かれました。最後に会堂の入口に伏して,会衆が跨いでいき,破門は解かれました。スピノザは1632年に産まれていますから,この儀式があったときには少年で,これを目撃していたかもしれないということが『破門の哲学』には記されています。
                                        
 ダ・コスタはこの復帰の儀式の屈辱によって,復帰してすぐにピストル自殺しています。この一連の出来事はアムステルダムにおけるひとつのスキャンダルでした。これはユダヤ人社会におけるスキャンダルということではなく,アムステルダムの住人であればユダヤ人であるか否かを問わずスキャンダルであったという意味です。ですから,スピノザが1656年に破門され,オルデンブルクがアムステルダムを訪れた1661年の時点でまだそれが解かれていなかったということは,ダ・コスタの一件ほどではなかったにしても,ひとつのスキャンダルとして広く知れ渡っていたと思われるのです。

 観念ideaの秩序ordoと観念対象ideatumの秩序は一致します。自然の秩序ordo naturaeと知性の秩序ordo intellectusは異なった秩序です。ですから,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに,Xの真の観念idea veraが発生するときの秩序と,Xの誤った観念idea falsaが発生するときの秩序は,自然の秩序と知性の秩序が異なっている分だけ異なっているといわなければなりません。この秩序が異なっているがゆえに,Xの真の観念とXの誤った観念が,現実的に存在する人間の精神のうちに,同時にあることができるのです。
 このことから理解できるように,現実的に存在するある人間の精神のうちにあるXの真の観念もXの誤った観念も,同じように神Deusを最近原因causa proximaとしているのですが,各々は異なった秩序で人間の精神のうちに発生するのですから,異なった神を最近原因としているといわなければなりません。すなわち,ある人間の精神のうちにXの真の観念が発生するときの最近原因は,その人間の精神の本性naturaを構成する限りでの神であり,同じ人間の精神のうちにXの誤った観念が発生するという場合の最近原因は,その人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りでの神です。無限知性intellectus infinitusのうちではどちらもXの真の観念ではあるのですが,この人間の精神のうちでは,前者は神に関係させることができるけれど,後者は神に関係させることができませんから,前者はXの真の観念で後者はXの誤った観念であることになり,このふたつが同時に同じ人間の精神のうちにあることができるようになります。
 よってまず,この観点から河井が示している事例は,河井が主張しようとしていることに対して適切性を欠いていると僕には思えます。歪んだ円の観念に対する最近原因としての神のあり方は,それが真の観念であるのか誤った観念であるかのかということによって異なるといわれなければならないのに,河井の示し方では,最近原因としての神が認識されることによって,歪んだ円の観念が真verumになるというようにしか解せないからです。確かに最近原因としての神が認識されるのであれば,それはどのような観念であれ真ではあるでしょうが,最近原因としての神は真の観念に対してだけあるわけではありません。
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悪の確知&目的論

2023-08-27 20:13:11 | 哲学
 第四部定理六六で示した例から,何がいえるのかをみていきます。
                                   
 ある人間が現実的に存在していて,その人間が100円をもらうことも喜びlaetitiaであり1000円をもらうことも喜びです。つまり第四部定理八により,それらはいずれも善bonumの認識cognitioです。もちろん,100円をもらうことよりも1000円をもらうことの方がより大きな喜びですから,100円をもらうことは小なる善で1000円をもらうことは大なる善になりますが,善の認識であることに違いはありません。善の確知は十全な認識であり得るのですから,これらはそれ自体でみれば,どちらもその人間にとっての十全な認識であり得ることになります。
 しかし,もしも100円をもらうことが1000円をもらうことを阻害するのであれば,小なる善が大なる善を妨害していることになるでしょう。よってこの場合は,第四部序言および第四部定義二により,100円をもらうという小なる善はmalumであるということになります。ところが,100円をもらうことは,それ自体でみれば善ではあるので,十全な認識であり得るのでした。したがって,それがより大なる善を妨害する限りでの小なる善は,悪であると認識されるのですが,十全な認識であり得るということになるのです。つまりこの場合は,悪の確知もまた善の確知と同様に,十全な認識であり得るということになります。
 これは不条理ではありません。100円をもらうことは,それ自体では善であって,1000円をもらうことを妨害するとみられる限りでは悪といわれているからです。いい換えればこれらふたつのことは両立し得ることになります。したがって,第四部定理六四でいわれているように,悪の認識というのは,それ自体でみれば混乱した認識ではあるのですが,大なる善を妨害する小なる善が悪といわれる場合には,悪の認識もまた十全な認識であり得るのです。よって悪の確知は,それ自体では十全な認識ではあり得ないのですが,第四部序言や第四部定義二に従う限り,十全な認識であり得ることになるのです。

 無限に多くのinfinita面積が等しい矩形を存在させるという目的finisのために円が存在するということはあり得ません。したがって,ユークリッド原論第3巻命題35が,何らかの目的論を示唆しているということはあり得ません。ですから,河井が指摘しているような仕方でカントImmanuel Kantがこの命題を援用しているのであれば,それは適切性を欠いた援用であるといえるのではないかと僕は考えます。
 このことは,おそらくこの命題に限定されたようなことではありません。ユークリッド原論そのもの,つまりその全体が,何らかの因果律を示しているというようには僕は思いませんが,目的論観点から記述されているということはあり得ないと思います。ですから,ユークリッド原論にあるどの命題を援用する場合であっても,目的論的観点からそれを援用するのであれば,そのこと自体が適切性を欠くことだと僕は考えます。
 スピノザの哲学は,目的論に関してはその一切を排除したような思想です。これは第一部付録から明白であるといわなければなりません。ですからスピノザの立場からユークリッド原論の諸命題を援用することは,そのことだけで適切性を欠いてしまうということはありません。第一部公理三から分かるように,スピノザは因果律を重視します。というか因果律だけを重視して,方法論としては原因causaから結果effectusへと辿る演繹法だけを肯定します。一般に公理系で書かれているものは,方法としては演繹法を採用しているといえるのであって,この観点からはスピノザの哲学と相性がいいといえます。これは『エチカ』が公理系で記述されているということからも明らかでしょう。ただ,だからユークリッド原論が因果律について何かを言及しようとしているとまではいえませんから,スピノザがユークリッド原論の諸命題を援用するとき,それがすべての場合で適切であるということはできないでしょう。ただ,そのことで適切性を欠くという事態に陥ることはないというようにはいえるでしょう。
 この部分に関する探究はここまでとします。巻頭言の中ではもうひとつ,畠中の訳出について言及されていますので,次にその考察をします。これは第二部定理三二の訳です。
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