少し間が開きましたが12日のコメントにここでレスします。
自由意志について考えたことがきっかけで僕はスピノザ哲学へ回帰したわけですが,そこで本格的に『エチカ』を読み直し始めてみて,『エチカ』を理解するということは,僕にとって価値があることではないかと思うようになりました。
だからこのブログを始めたことも含めて,現在の僕にとっては,『エチカ』は何か特定のことを理解するための手段のようなものではなくて,それを十分に,また納得がいくように理解すること自体が目的だといえます。
ここで用語を説明しておかなければなりません。
デカルトースピノザの哲学では,事物Aが精神や知性の外に実在するとき,Aがformaliter(形相的に)あるといい,逆に事物Aが,観念として精神や知性のうちに実在する場合には、Aがobjective(客観的に)あるといいます。これには岩波文庫版では想念的という訳が与えられていますが,僕はこんなことばは知らないので,直訳して客観的といいます。
なので僕がXが客観的にあるといったら、Xが主観の対象として実在するという意味ではなく,Xがある精神あるいは知性のうちに観念として(むしろ主観的に)実在するという意味です。まあ,紛らわしいですから,その都度,何らかの方法で注意するつもりです。
自由意志について考えたことがきっかけで僕はスピノザ哲学へ回帰したわけですが,そこで本格的に『エチカ』を読み直し始めてみて,『エチカ』を理解するということは,僕にとって価値があることではないかと思うようになりました。
だからこのブログを始めたことも含めて,現在の僕にとっては,『エチカ』は何か特定のことを理解するための手段のようなものではなくて,それを十分に,また納得がいくように理解すること自体が目的だといえます。
ここで用語を説明しておかなければなりません。
デカルトースピノザの哲学では,事物Aが精神や知性の外に実在するとき,Aがformaliter(形相的に)あるといい,逆に事物Aが,観念として精神や知性のうちに実在する場合には、Aがobjective(客観的に)あるといいます。これには岩波文庫版では想念的という訳が与えられていますが,僕はこんなことばは知らないので,直訳して客観的といいます。
なので僕がXが客観的にあるといったら、Xが主観の対象として実在するという意味ではなく,Xがある精神あるいは知性のうちに観念として(むしろ主観的に)実在するという意味です。まあ,紛らわしいですから,その都度,何らかの方法で注意するつもりです。