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竜王戦第七局。
封じ手(53手目)は指されてみれば納得という感じの▲5七銀でした。56手目の△6二銀で後手の銀の位置が中途半端になったところで▲4五歩として戦闘開始。この仕掛けは機敏であったと思います(渡辺竜王はここしかないと判断されたとのことです)。
その後,66手目の△4八馬から千日手模様に。感想戦によると佐藤棋聖はこのあたりの手順を悔やんでいたようです。68手目が△3八馬ならより千日手の可能性が高いように思え,後手としてはそうした方がよかったかもしれません。ただ,佐藤棋聖は先後に関わらず千日手を嫌う傾向にあります。
本譜は71手目に▲2四歩が入り,先手がリードした感じです(竜王曰く「感触のよい手」)。そこから78手目の△3八馬からまた千日手模様になりましたが佐藤棋聖は88手目の△6五歩で打開。しかし93手目の▲2四歩からの継ぎ歩攻めが厳しく,101手目に▲6三歩成とと金を作っては完全に先手が優勢になったと思います。以下,125手目の▲5七角が決め手ともいえる攻防の好手(ここでは勝利を意識されたとのことです)。ここからは渡辺竜王が緩みなく寄せきりました。
佐藤棋聖は封じ手前後が棋風にそぐわず消極的だったという印象で,渡辺竜王の快勝といえるでしょう。勝った渡辺竜王はこれで3連覇。竜王戦は連覇が難しく,これは藤井九段に並ぶふたりめの最多タイ記録です。
同一の本性natura,essentiaを有するものが数の問題として区別される場合,その区別distinguereが様態的区別であるということは一般的な真理ですから,知性intellectusが属性attributumについて認識する場合にも当てはまります。
属性は第一部定義四により,実体substantiaの本性essentiamのことをいうわけです。属性の本性というのは奇妙ないい方かもしれませんが,スピノザの哲学では,事物の定義Definitioは事物の本性を意味するということになっていますので,属性にも本性があるということは疑いようがないと思います。したがって,実体Aの本性が属性Xと属性Yによって構成され,実体Bの本性が属性Yと属性Zによって構成されるという場合には,ふたつの属性Yが数の問題として区別されていることは明らかで,ゆえに知性はこのとき,本来は実在的にrealiter区別されなければならない属性を,様態的にmodaliter区別している,すなわちそのように誤って認識しているということになると思います。
よってこの観点からも,やはりふたつの属性Yがそのような仕方で実在するということは不可能であるということになり,同一の本性ないしは属性を有する複数の実体は存在しないaut plures substantiae ejusdem naturae, sive attributeという第一部定理五の見解の正しさが結論されると思います。
竜王戦第七局。
封じ手(53手目)は指されてみれば納得という感じの▲5七銀でした。56手目の△6二銀で後手の銀の位置が中途半端になったところで▲4五歩として戦闘開始。この仕掛けは機敏であったと思います(渡辺竜王はここしかないと判断されたとのことです)。
その後,66手目の△4八馬から千日手模様に。感想戦によると佐藤棋聖はこのあたりの手順を悔やんでいたようです。68手目が△3八馬ならより千日手の可能性が高いように思え,後手としてはそうした方がよかったかもしれません。ただ,佐藤棋聖は先後に関わらず千日手を嫌う傾向にあります。
本譜は71手目に▲2四歩が入り,先手がリードした感じです(竜王曰く「感触のよい手」)。そこから78手目の△3八馬からまた千日手模様になりましたが佐藤棋聖は88手目の△6五歩で打開。しかし93手目の▲2四歩からの継ぎ歩攻めが厳しく,101手目に▲6三歩成とと金を作っては完全に先手が優勢になったと思います。以下,125手目の▲5七角が決め手ともいえる攻防の好手(ここでは勝利を意識されたとのことです)。ここからは渡辺竜王が緩みなく寄せきりました。
佐藤棋聖は封じ手前後が棋風にそぐわず消極的だったという印象で,渡辺竜王の快勝といえるでしょう。勝った渡辺竜王はこれで3連覇。竜王戦は連覇が難しく,これは藤井九段に並ぶふたりめの最多タイ記録です。
同一の本性natura,essentiaを有するものが数の問題として区別される場合,その区別distinguereが様態的区別であるということは一般的な真理ですから,知性intellectusが属性attributumについて認識する場合にも当てはまります。
属性は第一部定義四により,実体substantiaの本性essentiamのことをいうわけです。属性の本性というのは奇妙ないい方かもしれませんが,スピノザの哲学では,事物の定義Definitioは事物の本性を意味するということになっていますので,属性にも本性があるということは疑いようがないと思います。したがって,実体Aの本性が属性Xと属性Yによって構成され,実体Bの本性が属性Yと属性Zによって構成されるという場合には,ふたつの属性Yが数の問題として区別されていることは明らかで,ゆえに知性はこのとき,本来は実在的にrealiter区別されなければならない属性を,様態的にmodaliter区別している,すなわちそのように誤って認識しているということになると思います。
よってこの観点からも,やはりふたつの属性Yがそのような仕方で実在するということは不可能であるということになり,同一の本性ないしは属性を有する複数の実体は存在しないaut plures substantiae ejusdem naturae, sive attributeという第一部定理五の見解の正しさが結論されると思います。