スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&個人の本性

2007-03-23 23:26:47 | 将棋
 棋王戦五番勝負第四局。今日は午前中にネット環境にあったので,対局開始から11時頃まで観戦しました。森内棋王の先手で,後手の佐藤棋聖が一手損角換りの向飛車。端の形が違いますが戦型としては王将戦第七局と同じ。そのときより早い段階で先手が▲6五角と打ったので,序盤早々から大乱戦になりました。この展開,先手が作った馬を金と交換し,この金を打って後手の生角と交換するわけですから,部分的にいえば先手が随分と損をしているということになると思うのですが,歩得が残りますし,玉の形も先手の方がいいように思いますから,悪くはないのでしょう。僕は27手目の▲4六歩までしか見られませんでしたが,有利・不利はともかく,少なくとも模様として先手が悪いということはないだろうと思いました。あとは対局終了まで見られませんでしたが,この将棋は感想戦にある通り,46手目の△4四角が敗着で,ここから角を切って51手目に▲3一飛成と飛車取りで龍を作ったところでは先手が優勢でしょう。トッププロとしては珍しいと思えるくらいの重大な錯覚が佐藤棋聖にあったようですが,ここからはおそらく完璧な指し回しで森内棋王の勝利。ということで2勝2敗の五分となり,決着は最終第五局に持ち越しとなりました。今シリーズはずっと先手が勝っているということもあり,最終局は振駒になりますので,それがひとつ大きなポイントになりそうです。28日に指されます。

 エチカでは個人の本性(人間の本性)というのは,能動的な場合と受動的な場合のふたつの観点から考えられているといえるように思います。前者は理性という観点で,後者は受動感情としての欲望(欲望という感情は,必ず受動的であるというわけではありません)という観点だといえます。人間が理性(能動的にみられた場合の人間の本性そのもの)に従う場合,すべての人間は必然的に一致します(第四部定理三五)。したがってこの場合,その本性から必然的に生じることも各人において完全に一致するということになります。よって,スピノザの自然権の考え方からして,万人に同じだけの自然権があるということになると思います。しかし,受動感情としての欲望という観点から人間の本性を考えた場合(第三部諸感情の定義一),たとえば人間は同一の対象から異なった仕方で刺激されるということがあります(第三部定理五一)ので,本性の必然性から生じることは,各人によって異なりますし,また,同一の人間であっても,時によって,あるいは場合によって異なるということがあり得るでしょう。ですからこの場合は,各人の自然権というのは,その受動のあり方に応じて異なるということになります。そしてエチカの大原則として,人間が完全に能動的であるということは不可能ということになっていますので(第四部定理三,四),基本的に,人間が有する自然権というのは,拡大することもあるし縮小することもある,そういう動的で実在的な概念であるということになるのではないかと思います。
コメント (2)
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