福井記念の決勝(動画)は,伏見選手がバンクレコードタイという記録を出して優勝となりました。
かなりの牽制があった末に,永井選手の前受け。渡部選手が4番手,伏見選手が6番手で周回。残り2周のホームから伏見選手が上昇を開始し,バックでは永井選手を抑えました。さらに打鐘前に渡部選手が上昇していき,伏見選手を抑えて先頭に。打鐘から永井選手が発進すると,外の山口選手は何の抵抗もできずあっさり富永選手が番手を守り,永井選手がホームで渡部選手を叩くと,中部近畿の3人で前に出きりました。遅れた山口選手は友定選手の後ろに入って6番手。永井選手のダッシュがよく,渡部選手以下は少し切れ模様の一列棒状になったので,これは前で決まると思ったのですが,絶体絶命の7番手ながらバックの半ばから伏見選手が捲って出ると,直線も大外を伸びて届き優勝。伏見選手に合わせて4番手から捲った渡部選手も2着に届き,3着は伏見選手の番手の手島選手との接戦を,永井選手の番手の富永選手が制しました。
優勝した福島の伏見俊昭選手は昨年6月の高松記念以来となる久々の記念競輪優勝。自力選手ですが,北日本は有望な若手が多く,最近は番手を回るケースも増え,今開催もここが初めての自力勝負。位置取りにはっきりと失敗した感じで,厳しいレースとなりましたが,冒頭にも書いたようにバンクレコードタイをたたき出したとのことで,やはり復調してきているのではないかと思います。
期待した永井選手には残念なレース。牽制での発走となったので,前受けの際にも少し脚を使ったと思われ,それが最後の失速につながってしまったように思います。記念競輪を制覇する力はすでにあると思いますが,レース運行の仕方はもう少し勉強する必要があるかもしれません。
第一部定義二というのは,定義なのですから当り前といえば当り前ですが,少なくともスピノザの哲学において,事物が有限であるということがどのようなことであるのかということを,完全に示していると思います。したがってこの定義の本文のいい方に倣っていうなら,ある事物がもしも有限であるのならば,それは自己の類において有限であるという意味であって,それ以外の意味においては,どのような事物も有限であるということはないということになると思います。
そこで,自己の類というのが果たして何を意味するのかということが問題となってくるわけですが,これは僕が定義というよりは公理的性格を帯びた説明と考えるこの定義の最初の一文に続く部分で,ある物体はほかの物体によって限定され,同様にある思想はほかの思想に限定されるということによって有限であるといわれるのであって,物体が思想から限定されることがなければ,逆に思想が物体から限定されることもないとされているわけですから,要するに自己の類とは,それ自身と同じ属性を有するものの集合と考えるのが妥当であると思います。
よって,この定義は,あるものXがあって,そのXがそれと同一の属性を有するほかのものに限定される,あるいは限定され得ると考えられる場合には,Xは有限であり,またXが有限である場合は常にこの場合に限られ,Xが異なった属性を有するものに限定されることによって有限であるということはないと理解するのが妥当であろうと思われます。
かなりの牽制があった末に,永井選手の前受け。渡部選手が4番手,伏見選手が6番手で周回。残り2周のホームから伏見選手が上昇を開始し,バックでは永井選手を抑えました。さらに打鐘前に渡部選手が上昇していき,伏見選手を抑えて先頭に。打鐘から永井選手が発進すると,外の山口選手は何の抵抗もできずあっさり富永選手が番手を守り,永井選手がホームで渡部選手を叩くと,中部近畿の3人で前に出きりました。遅れた山口選手は友定選手の後ろに入って6番手。永井選手のダッシュがよく,渡部選手以下は少し切れ模様の一列棒状になったので,これは前で決まると思ったのですが,絶体絶命の7番手ながらバックの半ばから伏見選手が捲って出ると,直線も大外を伸びて届き優勝。伏見選手に合わせて4番手から捲った渡部選手も2着に届き,3着は伏見選手の番手の手島選手との接戦を,永井選手の番手の富永選手が制しました。
優勝した福島の伏見俊昭選手は昨年6月の高松記念以来となる久々の記念競輪優勝。自力選手ですが,北日本は有望な若手が多く,最近は番手を回るケースも増え,今開催もここが初めての自力勝負。位置取りにはっきりと失敗した感じで,厳しいレースとなりましたが,冒頭にも書いたようにバンクレコードタイをたたき出したとのことで,やはり復調してきているのではないかと思います。
期待した永井選手には残念なレース。牽制での発走となったので,前受けの際にも少し脚を使ったと思われ,それが最後の失速につながってしまったように思います。記念競輪を制覇する力はすでにあると思いますが,レース運行の仕方はもう少し勉強する必要があるかもしれません。
第一部定義二というのは,定義なのですから当り前といえば当り前ですが,少なくともスピノザの哲学において,事物が有限であるということがどのようなことであるのかということを,完全に示していると思います。したがってこの定義の本文のいい方に倣っていうなら,ある事物がもしも有限であるのならば,それは自己の類において有限であるという意味であって,それ以外の意味においては,どのような事物も有限であるということはないということになると思います。
そこで,自己の類というのが果たして何を意味するのかということが問題となってくるわけですが,これは僕が定義というよりは公理的性格を帯びた説明と考えるこの定義の最初の一文に続く部分で,ある物体はほかの物体によって限定され,同様にある思想はほかの思想に限定されるということによって有限であるといわれるのであって,物体が思想から限定されることがなければ,逆に思想が物体から限定されることもないとされているわけですから,要するに自己の類とは,それ自身と同じ属性を有するものの集合と考えるのが妥当であると思います。
よって,この定義は,あるものXがあって,そのXがそれと同一の属性を有するほかのものに限定される,あるいは限定され得ると考えられる場合には,Xは有限であり,またXが有限である場合は常にこの場合に限られ,Xが異なった属性を有するものに限定されることによって有限であるということはないと理解するのが妥当であろうと思われます。