佐世保記念2日目優秀の佐世保バーガー賞(動画)ですが,名物とはいえこの名称はどうなんでしょう。賞品にハンバーガーでも出るのかな。
並びですが九州は結束。菅原-小野-井上-紫原-合志でこの後ろに吉田。ということで佐藤-山田の北日本に石橋がつけて6対3という変則2分戦。
菅原選手の先行は当然ですが,残り1周のホームでは小野選手の後ろに吉田選手が入っていました。これを外から佐藤選手が捲り発進。ただし山田選手は離れて単騎。小野選手のブロックも強烈でしたが佐藤選手は乗越えました。このブロックで小野選手と菅原選手の車間が開いたので,バックでは佐藤選手が番手に入れる態勢でしたが構わず捲りきり,逆に菅原選手が佐藤選手の番手に。離れた3番手が小野選手でその後ろは内の吉田選手と外の山田選手で併走。その後ろに石橋選手。
直線,捲られた菅原選手が佐藤選手に再度詰め寄りましたが振り切って佐藤選手が1着。菅原選手が2着で,小野選手が前に追いつこうとするスピードに乗って外を伸びた石橋選手が3着に入りました。
佐藤友和選手は今年に入って少し調子が悪いのかなと思わせましたが,今日は強いレース。この力があればやはり優勝候補のひとりでしょう。もっともそのためには明日の準決勝をクリアしなければいけません。
井上選手が何もできなかったのは吉田選手が変則的な動きをしたからではないかと思いますが,やはり自力を出してこそですから,最初から割り切って別線で勝負した方がよかったのではないでしょうか。
内的特徴denominatio intrinsecaというのがあるならば,当然のこととして外的特徴denominatio extrinsecaというのもあるわけです。そこで観念ideaの外的特徴とは何であるかといえば,これは第二部定義四の中にすでに示されています。すなわちこの定義Definitioの後の説明で,スピノザは十全な観念idea adaequataを内的特徴によって定義することについて,その対象ideatumとの一致を除外するためであるといっているからです。したがって,観念と観念されたものとの関係というのが,観念の外的特徴になるわけです。
このように考えれば,十全な観念と真の観念との相違がどこにあるのかということが理解できます。つまり,ある知性intellectusのうちに十全な観念がある場合にはそれは常に真の観念idea veraでもあって,逆に真の観念があるならばそれは常に十全な観念でもあるわけですが,それを十全な観念というか真の観念というかは,この観念を内的特徴という観点から考えるのか,それとも外的特徴という観点から考えるのかという,いわば観点の相違にのみ依存するのです。
十全な観念の対義語を僕は混乱した観念といいます。これはラテン語のidea inadaequataの訳で,岩波文庫版では非妥当な観念とか非十全な観念と訳されています。一方,真の観念の対義語としては僕は誤った観念ということばを用います。よって観念は,内的特徴から考えられる限り,十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであり,もしも外的特徴から考えられるなら,真の観念であるか誤った観念であるかのどちらかです。もちろん,ある観念が混乱した観念であるなら,それは誤った観念ですし,逆に誤った観念であるなら,それは混乱した観念でもあるということになります。
並びですが九州は結束。菅原-小野-井上-紫原-合志でこの後ろに吉田。ということで佐藤-山田の北日本に石橋がつけて6対3という変則2分戦。
菅原選手の先行は当然ですが,残り1周のホームでは小野選手の後ろに吉田選手が入っていました。これを外から佐藤選手が捲り発進。ただし山田選手は離れて単騎。小野選手のブロックも強烈でしたが佐藤選手は乗越えました。このブロックで小野選手と菅原選手の車間が開いたので,バックでは佐藤選手が番手に入れる態勢でしたが構わず捲りきり,逆に菅原選手が佐藤選手の番手に。離れた3番手が小野選手でその後ろは内の吉田選手と外の山田選手で併走。その後ろに石橋選手。
直線,捲られた菅原選手が佐藤選手に再度詰め寄りましたが振り切って佐藤選手が1着。菅原選手が2着で,小野選手が前に追いつこうとするスピードに乗って外を伸びた石橋選手が3着に入りました。
佐藤友和選手は今年に入って少し調子が悪いのかなと思わせましたが,今日は強いレース。この力があればやはり優勝候補のひとりでしょう。もっともそのためには明日の準決勝をクリアしなければいけません。
井上選手が何もできなかったのは吉田選手が変則的な動きをしたからではないかと思いますが,やはり自力を出してこそですから,最初から割り切って別線で勝負した方がよかったのではないでしょうか。
内的特徴denominatio intrinsecaというのがあるならば,当然のこととして外的特徴denominatio extrinsecaというのもあるわけです。そこで観念ideaの外的特徴とは何であるかといえば,これは第二部定義四の中にすでに示されています。すなわちこの定義Definitioの後の説明で,スピノザは十全な観念idea adaequataを内的特徴によって定義することについて,その対象ideatumとの一致を除外するためであるといっているからです。したがって,観念と観念されたものとの関係というのが,観念の外的特徴になるわけです。
このように考えれば,十全な観念と真の観念との相違がどこにあるのかということが理解できます。つまり,ある知性intellectusのうちに十全な観念がある場合にはそれは常に真の観念idea veraでもあって,逆に真の観念があるならばそれは常に十全な観念でもあるわけですが,それを十全な観念というか真の観念というかは,この観念を内的特徴という観点から考えるのか,それとも外的特徴という観点から考えるのかという,いわば観点の相違にのみ依存するのです。
十全な観念の対義語を僕は混乱した観念といいます。これはラテン語のidea inadaequataの訳で,岩波文庫版では非妥当な観念とか非十全な観念と訳されています。一方,真の観念の対義語としては僕は誤った観念ということばを用います。よって観念は,内的特徴から考えられる限り,十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであり,もしも外的特徴から考えられるなら,真の観念であるか誤った観念であるかのどちらかです。もちろん,ある観念が混乱した観念であるなら,それは誤った観念ですし,逆に誤った観念であるなら,それは混乱した観念でもあるということになります。