スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

秒読み&観念のふたつの特徴

2008-02-16 19:35:27 | 将棋トピック
 朝日杯将棋オープンの本戦1回戦,佐藤康光二冠と郷田真隆九段の対戦では,ちょっとしたハプニングがありました。詳細は後藤記者観戦記をお読みください。これに関連して,僕もいくつか思うところを書いてみます。
 本来は規則として定められているものは厳密に適用されるべきです。しかしこれを厳密に適用することを記録係の奨励会員に求めるのは酷であるのも事実。このあたりは後藤記者もいっている通り。したがって,もし秒読みのルールを厳格化するならば,記録係の制度も改正しなければならないでしょう。
 しかし一将棋ファンとしての率直な感情をいえば,曖昧な領域を残すのも悪くないとは思うのです。59で指すのと60で指すのとで,読む量に格段の相違が出るとも思えません。また,時間切れの反則で終ってしまうような将棋は正直なところ観戦したくありません。それならば,明らかに指せなかった場合には反則負けは当然ですが,指せたか指せなかったか微妙というケースは指したことにしてほしいという思いもあるのです。
 記録係に10を読ませるのは酷であるというのは,逆にいえば,間に合ったと判断させるのも酷であるということ。今回のケースはその記録係がはっきりと間に合ったと言っていることからして,間に合っていたのだろうと推測します。だから郷田九段もその時点ではなく,もう覆らないと分かっている局後に指摘したのではないかと思います。しかし着手がそういうタイミングになったのは,佐藤二冠に非があり,本人も認めているようにマナー違反といわれて仕方がないでしょう。まだ20代の頃ですが,NHK杯でも解説者が「今のは」というくらいきわどいタイミングの指し手もありました。そういう意味では,郷田九段が勇気をもってこれを指摘したのは,単に佐藤二冠の今後だけでなく,将棋界全体のためにもよかったのではないかと思います。
 しかし一方で,相手の着手がぎりぎりだったからその後は考えられなかったというのはどうかとも思います。郷田九段にはとても酷ないい方になってしまいますが,相手の着手がきわどかったので考えられなくなったというのは,郷田九段の精神力にも少しの問題があるようにも思えるからです。
 ハプニングそのものに関しては佐藤二冠に100%の非があります。だからそれを指摘した郷田九段の勇気は賞賛に値すると思います。佐藤二冠も今後は十分に気を付けるべきでしょう。しかし,プロ棋士であるならば,○○だから十分に考えられなかったとは,言ってほしくなかったという思いもあるのです。

 明日は佐世保記念の決勝です。並びは佐藤-山田の北日本,吉田-古田の中部,石丸-豊田の岡山,井上-紫原-小野の九州。佐藤選手か井上選手か迷うところです。

 それではこれらふたつの特徴と,観念との関係をまとめておきます。ただし,原因と結果の秩序と連結に関しては,後で別の問題として扱いますので,ここでは本性だけに関連させて説明します。
 一般に事物の本性とは,その事物の内的特徴です。そしてこれは観念の場合にも同様です。よって,三角形の本性は三角形の内的特徴を示しますし,三角形の観念の本性は三角形の観念の内的特徴を示します。ただし観念の場合には,その観念が有限な知性のうちにあると考えられる限りでは,ある観念が,その観念の本性を十分には含んでいないというケースがあります。そこでこの観点からみた場合に,もしもある観念がその観念の本性を十分に含んでいるならば,この観念は十全な観念といわれますし,もしもこの観念がこの観念の本性を十分に含んでいなければ,あるいは別のいい方をすれば,この観念以外の本性をも含んでいるならば,この観念は混乱した観念といわれることになります。
 外的特徴とは,ある形相的事物の本性と,その事物の観念の本性とを比較する場合,すなわち,形相的事物の内的特徴と観念の内的特徴とを比較する場合の特徴のことです。そこでもし,これらふたつの内的特徴が一致するならば,その観念は真の観念といわれることになりますし,逆に一致しない場合には,この観念は誤った観念であるとみなされることになるわけです。もちろん誤った観念も,それはある有限な知性に関連させる限りで成立するような観念です。
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