今年は少しばかり小粒なメンバーでの争いとなった感が否めなかったエンプレス杯。
発走後に押していった笠松のクインオブクインの先手。アイスドール,トキノミスオースと続き,内にサヨウナラ,外にラピッドオレンジ。押した分,最初こそやや早めでしたが,1周目の正面をすぎたところではかなりペースが落ち,固まっての競馬になりました。
残り800メートルから一気にペースアップ。ここでラピッドオレンジがついていけなくなり,替わってニシノナースコールが上昇。コーナーではトキノミスオースも脱落し,クインオブクインの外にアイスドールが並びかけて直線に。ここでずっとインで控えていたサヨウナラが,前が開いたのをみて追い出すと,一気に抜け出しました。2着争いは前2頭の叩き合いに思われましたが,馬場の中ほどを通ったニシノナースコールの末脚がよく,2頭を交わして2着。途中でスローに落として逃げたクインオブクインが3着に残り,アイスドールは4着まで。
優勝したサヨウナラは昨年3月の1600万条件以来の勝利となり,重賞は初制覇。これが7勝目になりますが,過去の6勝のうち4勝を左回りで上げていて,左回りの適性が高かったようです。今日はずっとコースロスなく内を回ってきた岩田康誠騎手の手綱捌きも見事でした。
2着のニシノナースコールは今日が休養明け。今後もこの路線である程度は戦えるという目途が立ったのではないでしょうか。
王将戦は先手の久保利明八段が四間飛車。羽生善治王将は急戦を選択。この将棋はさすがに封じ手の局面で差がついているということはないように思います。
かつて第一部定理三二,また第一部定理三二系一について考えたことがありました。その結論として,意志というものが絶対的な思惟,あるいは思惟の属性そのものではなく,思惟の様態であるということについてはすでに結論として出ています。ここで重要なことは,これは人間の意志にのみ妥当するような結論ではなくて,あらゆる意志,すなわち神の意志に関しても同様に妥当な結論であるということです。したがって,神の意志といえども,それは神の絶対的本性に属するようなあるものではなくて,神の思惟の属性を原因として生じるような思惟の様態であると考えなければいけないということは,スピノザの哲学においては,神について考える場合にもまた意志について考える場合にも,絶対的な前提となる事柄なのです。スピノザの哲学とニーチェの哲学との間にある対立にのみ関連させていうならば,ニーチェは「神は死んだ」ということによって,スピノザのいう意味での神,すなわち第一部定義六に定義されるような神の存在そのものを否定しますので,これは大した問題にはなりませんが,多くの哲学は神の本性としての絶対的な意志というものを認めますので,そうした哲学とスピノザの哲学との間には,大きな隔たりがあるということになります。
そこで,第二部定理四九系で,観念が意志と同一であるといわれるなら,これにより観念もまた思惟の様態であるということが出てくることになります。よって,もしもこの系が正しいのであれば,意志は思惟の様態であるのだから,観念もまた思惟の様態であるということ,すなわちここで導き出したい事柄が出てくるということになりますので,今はこの系をこのような意味の上から理解するということにします。
発走後に押していった笠松のクインオブクインの先手。アイスドール,トキノミスオースと続き,内にサヨウナラ,外にラピッドオレンジ。押した分,最初こそやや早めでしたが,1周目の正面をすぎたところではかなりペースが落ち,固まっての競馬になりました。
残り800メートルから一気にペースアップ。ここでラピッドオレンジがついていけなくなり,替わってニシノナースコールが上昇。コーナーではトキノミスオースも脱落し,クインオブクインの外にアイスドールが並びかけて直線に。ここでずっとインで控えていたサヨウナラが,前が開いたのをみて追い出すと,一気に抜け出しました。2着争いは前2頭の叩き合いに思われましたが,馬場の中ほどを通ったニシノナースコールの末脚がよく,2頭を交わして2着。途中でスローに落として逃げたクインオブクインが3着に残り,アイスドールは4着まで。
優勝したサヨウナラは昨年3月の1600万条件以来の勝利となり,重賞は初制覇。これが7勝目になりますが,過去の6勝のうち4勝を左回りで上げていて,左回りの適性が高かったようです。今日はずっとコースロスなく内を回ってきた岩田康誠騎手の手綱捌きも見事でした。
2着のニシノナースコールは今日が休養明け。今後もこの路線である程度は戦えるという目途が立ったのではないでしょうか。
王将戦は先手の久保利明八段が四間飛車。羽生善治王将は急戦を選択。この将棋はさすがに封じ手の局面で差がついているということはないように思います。
かつて第一部定理三二,また第一部定理三二系一について考えたことがありました。その結論として,意志というものが絶対的な思惟,あるいは思惟の属性そのものではなく,思惟の様態であるということについてはすでに結論として出ています。ここで重要なことは,これは人間の意志にのみ妥当するような結論ではなくて,あらゆる意志,すなわち神の意志に関しても同様に妥当な結論であるということです。したがって,神の意志といえども,それは神の絶対的本性に属するようなあるものではなくて,神の思惟の属性を原因として生じるような思惟の様態であると考えなければいけないということは,スピノザの哲学においては,神について考える場合にもまた意志について考える場合にも,絶対的な前提となる事柄なのです。スピノザの哲学とニーチェの哲学との間にある対立にのみ関連させていうならば,ニーチェは「神は死んだ」ということによって,スピノザのいう意味での神,すなわち第一部定義六に定義されるような神の存在そのものを否定しますので,これは大した問題にはなりませんが,多くの哲学は神の本性としての絶対的な意志というものを認めますので,そうした哲学とスピノザの哲学との間には,大きな隔たりがあるということになります。
そこで,第二部定理四九系で,観念が意志と同一であるといわれるなら,これにより観念もまた思惟の様態であるということが出てくることになります。よって,もしもこの系が正しいのであれば,意志は思惟の様態であるのだから,観念もまた思惟の様態であるということ,すなわちここで導き出したい事柄が出てくるということになりますので,今はこの系をこのような意味の上から理解するということにします。