スピノザの哲学の体系というのは,実際は非常にシンプルなものであって,こういってよければひとつの式に還元することができるようなものです。確かに『エチカ』というのは数多くの定義と公理,そして定理や系から成立しているものではありますが,それでもなお,その中心を貫く原理は単純なものです。それはスピノザ自身が,『エチカ』第三部の序言において,「自然は常に同じであり,自然の力と活動能力はいたるところ同一である」といっていることからも明らかだと思います。
ここまで明らかになれば,僕がルールの公理系において,公理系がシンプルに成立している競技が,よりスピノザ哲学の信奉者の好みに合うのではないかという仮説を立てた理由もお分かりいただけるものと思います。
確かに哲学は哲学であり,また競技は競技ですから,まったく別のものではあります。しかしこの公理系の単純さは,確かにスピノザの哲学のひとつの魅力であると僕は思うのです。そして分裂病と躁鬱病というカテゴリーの中で,分裂病圏にある人が特異的にこの哲学のシンプルさに魅力を感じるのであるとすれば,このことは競技の公理系の場合にもやはり妥当するのであって,シンプルな公理系によって成立している競技の方に,大きな魅力を感じるのではないかと思うのです。
これは逆もいえるでしょう。もしもあなたが,シンプルな競技がより好きであるのなら,あなたは分裂病圏に属する人間なのかもしれません。そしてぜひスピノザを読んでみてください。そこには意外な魅力が潜んでいるかもしれません。
ある人間の知性の一部が混乱した観念によって形成されているとき,これはこの人間の知性の一部が虚偽を含んでいるということであり,それ自体でみるならば,非実在的なもの,すなわち無によって形成されているということにほかなりません。これは僕にも否定することができません。というか,否定するつもりもありません。
しかし,この場合にスピノザの哲学において重要なのは,この知性の一部が虚偽によって構成されていることが,直ちにこの人間の知性のうちに誤謬が含まれている,もっと簡単ないい方をするなら,この人間が誤っているということを意味するわけではないということです。これもいくつかの考察の中で再三いってきていることですが,スピノザの哲学にあっては,虚偽と誤謬は,それぞれ異なった概念として考えなければならないのです。
第二部定理三五により,誤謬とは,虚偽を真理と信じ込むこと,ないしは虚偽が虚偽であると知らないことです。次に第二部定理四二により,真理の規範,すなわち真理と虚偽とを分つのは真理それ自身ですが,第二部定理三八および第二部定理三九により,人間の精神のうちには必ずそうした真理が生じます。よって人間はこの真理によって虚偽を真理から分つことができる,いい換えれば,ある虚偽が自分の知性の一部を構成している場合においても,そうした虚偽が自身の知性のうちに発生すること自体は防ぐことができませんが,それを虚偽と知ることは可能なのです。つまり,たとえそれ自体では非実在的なものが知性の一部を占めていても,それが非実在的であるということを正しく認識することができるのです。
この限りにおいて,人間が事物を表象することを,それはたとえ虚偽であっても,精神の力であるとスピノザがみなしていることは,第二部定理一七備考の一文に示されている通りです。そしてこれが,僕が知性と意志の関係を,本性と実在性の関係から説明しようとする理由になっているのです。
ここまで明らかになれば,僕がルールの公理系において,公理系がシンプルに成立している競技が,よりスピノザ哲学の信奉者の好みに合うのではないかという仮説を立てた理由もお分かりいただけるものと思います。
確かに哲学は哲学であり,また競技は競技ですから,まったく別のものではあります。しかしこの公理系の単純さは,確かにスピノザの哲学のひとつの魅力であると僕は思うのです。そして分裂病と躁鬱病というカテゴリーの中で,分裂病圏にある人が特異的にこの哲学のシンプルさに魅力を感じるのであるとすれば,このことは競技の公理系の場合にもやはり妥当するのであって,シンプルな公理系によって成立している競技の方に,大きな魅力を感じるのではないかと思うのです。
これは逆もいえるでしょう。もしもあなたが,シンプルな競技がより好きであるのなら,あなたは分裂病圏に属する人間なのかもしれません。そしてぜひスピノザを読んでみてください。そこには意外な魅力が潜んでいるかもしれません。
ある人間の知性の一部が混乱した観念によって形成されているとき,これはこの人間の知性の一部が虚偽を含んでいるということであり,それ自体でみるならば,非実在的なもの,すなわち無によって形成されているということにほかなりません。これは僕にも否定することができません。というか,否定するつもりもありません。
しかし,この場合にスピノザの哲学において重要なのは,この知性の一部が虚偽によって構成されていることが,直ちにこの人間の知性のうちに誤謬が含まれている,もっと簡単ないい方をするなら,この人間が誤っているということを意味するわけではないということです。これもいくつかの考察の中で再三いってきていることですが,スピノザの哲学にあっては,虚偽と誤謬は,それぞれ異なった概念として考えなければならないのです。
第二部定理三五により,誤謬とは,虚偽を真理と信じ込むこと,ないしは虚偽が虚偽であると知らないことです。次に第二部定理四二により,真理の規範,すなわち真理と虚偽とを分つのは真理それ自身ですが,第二部定理三八および第二部定理三九により,人間の精神のうちには必ずそうした真理が生じます。よって人間はこの真理によって虚偽を真理から分つことができる,いい換えれば,ある虚偽が自分の知性の一部を構成している場合においても,そうした虚偽が自身の知性のうちに発生すること自体は防ぐことができませんが,それを虚偽と知ることは可能なのです。つまり,たとえそれ自体では非実在的なものが知性の一部を占めていても,それが非実在的であるということを正しく認識することができるのです。
この限りにおいて,人間が事物を表象することを,それはたとえ虚偽であっても,精神の力であるとスピノザがみなしていることは,第二部定理一七備考の一文に示されている通りです。そしてこれが,僕が知性と意志の関係を,本性と実在性の関係から説明しようとする理由になっているのです。