互いに先手で2勝ずつ。タイトルの行方を考えれば大きな一番となった第51期王位戦七番勝負第五局。
先手は広瀬章人六段で四間飛車穴熊。深浦康市王位が☖5三銀と上がらずに居飛車穴熊に組もうとしたのでそれは許さずと先手が銀を繰り出し,早い段階から戦いとなりました。
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☖7九角に☗6七飛と逃げたところ。玉は先手の方がしっかりしていて後手の手番で駒得。均衡がとれているかもしれません。後手はここで☖7八銀と打ち☗6五飛と逃げて1日目が終了。封じ手はこれしかない☖5七角成。☗6三歩成☖4八金☗同金☖同馬☗6二と☖3八金☗3七銀打☖4七馬☗3九金☖3七金(第2図)と進みました。
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この局面で遠山四段は先手持ちという見解。後手の攻めが続くかどうかが最大の焦点なので,先手が受けきれるというのがプロの感覚なのでしょう。7八に打った銀を働かせることができないのが後手の最大の難点と思われ,この局面が先手良しなら,そのあたりは問題であったものと推測されます。
とはいえ僕のレベルでは後手もかなり食いついて,先手も受けきるのは大変なようには思えます。実戦の進行で先手が最善の対応をしたのかどうかも分かりませんが,第3図に。
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この☗5三飛と打った手は妙手だそうです。☖9九飛成と香車を取った手に☗6一とと踏み込みました。そこで取った香車をすぐに☖2七香と打って用意の☗5九歩に☖9七龍はおそらく最善の順。一見するとこの形は受け難く,控室の評価は一気に後手勝勢に。この☗3七同銀の局面で☖4七龍と取るとか,実戦の☖4六銀☗3八金打に☖同馬と取るなど,後手としては変化の順はあって,本当はその評価通りに後手の勝ちだった可能性はあります。しかし実戦は千日手に。後手が寄せ損なったのだとすれば,先手は命拾いの一局ということになるでしょう。
指し直し局についてはまた明日。
問題となるのは昨年と同様に渡米した母と妹のことではなく,僕と共に留守番をした父についてです。ここからは父についての記述が多くなりますので,前もって,そのために必要なことだけを説明しておくことにします。
父は1944年の9月産まれ。したがってこの時点では65歳ということになります。父は8人きょうだいの末っ子。つまり7人の兄姉がいるということになりますが,上から5人が姉で,その後のふたりが兄。父の両親,つまり僕からみれば祖父と祖母ということになりますが,祖父というのは僕が産まれる前,というよりも僕の父が母と知り合う前に死んでいますので,僕は会ったことがありませんし,当然ながら母も会ったことはありません。一方,祖母の方は今から18年前の1992年の10月に死んでいます。父は末子相続という形で家を継ぎましたので,この祖母は僕が産まれたときからずっと同居していました。僕の生年月日は以前に書きましたが,22年弱,僕も一緒に暮らしたということになります。なお,祖母の死因は癌でした。
きょうだいの方ですが,上からふたり,つまり僕からみますとふたりの伯母はすでに死んでいます。長女はもともと呼吸器系に疾患を抱えていまして,それが死因となりました。次女の方は直接的な死因とは異なりますが,その契機となったのはⅡ型糖尿病でした。なお,永久欠番で紹介した伯父というのは,長女の夫です。したがって今年の5月の時点で,父には,3人の実の姉と2人の実の兄がいたということになります。
父は大学を卒業した後,中学校の教諭になりました。最終的に定年まで勤め,その後も4ヶ月ほど特例で勤務しています。僕が産まれたのは当然ながら父の就職後ですから,僕の人生のほとんどの間,父は中学校教師であったということになります。なお,中学校の教師は専属の教科がありますが,父の場合は数学。ただし,途中からは当時でいう特殊学級,現在でいうところの特別支援学級を担当しています。なお,こうした縁もありまして,退職後は,施設に通う障害者の送迎のボランティアなどをしていました。また,中学では部活動がありますが,父はどの学校に転勤しても一貫してバドミントン部の顧問をしていました。父の友人というのは,職場の同僚よりも,他校のバドミントン部の顧問の先生というのが多かったように思います。
先手は広瀬章人六段で四間飛車穴熊。深浦康市王位が☖5三銀と上がらずに居飛車穴熊に組もうとしたのでそれは許さずと先手が銀を繰り出し,早い段階から戦いとなりました。
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とはいえ僕のレベルでは後手もかなり食いついて,先手も受けきるのは大変なようには思えます。実戦の進行で先手が最善の対応をしたのかどうかも分かりませんが,第3図に。
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この☗5三飛と打った手は妙手だそうです。☖9九飛成と香車を取った手に☗6一とと踏み込みました。そこで取った香車をすぐに☖2七香と打って用意の☗5九歩に☖9七龍はおそらく最善の順。一見するとこの形は受け難く,控室の評価は一気に後手勝勢に。この☗3七同銀の局面で☖4七龍と取るとか,実戦の☖4六銀☗3八金打に☖同馬と取るなど,後手としては変化の順はあって,本当はその評価通りに後手の勝ちだった可能性はあります。しかし実戦は千日手に。後手が寄せ損なったのだとすれば,先手は命拾いの一局ということになるでしょう。
指し直し局についてはまた明日。
問題となるのは昨年と同様に渡米した母と妹のことではなく,僕と共に留守番をした父についてです。ここからは父についての記述が多くなりますので,前もって,そのために必要なことだけを説明しておくことにします。
父は1944年の9月産まれ。したがってこの時点では65歳ということになります。父は8人きょうだいの末っ子。つまり7人の兄姉がいるということになりますが,上から5人が姉で,その後のふたりが兄。父の両親,つまり僕からみれば祖父と祖母ということになりますが,祖父というのは僕が産まれる前,というよりも僕の父が母と知り合う前に死んでいますので,僕は会ったことがありませんし,当然ながら母も会ったことはありません。一方,祖母の方は今から18年前の1992年の10月に死んでいます。父は末子相続という形で家を継ぎましたので,この祖母は僕が産まれたときからずっと同居していました。僕の生年月日は以前に書きましたが,22年弱,僕も一緒に暮らしたということになります。なお,祖母の死因は癌でした。
きょうだいの方ですが,上からふたり,つまり僕からみますとふたりの伯母はすでに死んでいます。長女はもともと呼吸器系に疾患を抱えていまして,それが死因となりました。次女の方は直接的な死因とは異なりますが,その契機となったのはⅡ型糖尿病でした。なお,永久欠番で紹介した伯父というのは,長女の夫です。したがって今年の5月の時点で,父には,3人の実の姉と2人の実の兄がいたということになります。
父は大学を卒業した後,中学校の教諭になりました。最終的に定年まで勤め,その後も4ヶ月ほど特例で勤務しています。僕が産まれたのは当然ながら父の就職後ですから,僕の人生のほとんどの間,父は中学校教師であったということになります。なお,中学校の教師は専属の教科がありますが,父の場合は数学。ただし,途中からは当時でいう特殊学級,現在でいうところの特別支援学級を担当しています。なお,こうした縁もありまして,退職後は,施設に通う障害者の送迎のボランティアなどをしていました。また,中学では部活動がありますが,父はどの学校に転勤しても一貫してバドミントン部の顧問をしていました。父の友人というのは,職場の同僚よりも,他校のバドミントン部の顧問の先生というのが多かったように思います。