23日から予定されていた西武園記念は計画停電の懸念があったために一旦は中止が決定。しかしその心配が排除されたので,がんばろう日本という名称のGⅢが同じ日程で開催されることになり今日が決勝。日程も施行場も同一ですから,事実上の西武園記念としてこのブログでは扱います。並びは長塚-平原-飯嶋の関東,浅井-加藤の中部,中村-村上-市田の近畿で新田が単騎。
浅井の前受けとなり3番手は長塚。新田がここを追走して中村が後方で周回。中村は上昇するも前は叩かず,長塚を牽制。打鐘前のバックで長塚がインを上昇。ちょうど打鐘のあたりで加藤をどかして番手に。一旦は連結が途切れたように見えましたが,平原-飯嶋-新田もつけ直しました。ホームから浅井が成り行き先行。村上が新田をどかすと,浮いた新田がバックで単独の捲り。いいスピードでしたが十分に引きつけてから長塚が発進すると新田の方がスピード負け。直線は関東勢の争いとなりましたが追撃を凌いで長塚が優勝。平原が2着で中を割ろうとするも飯嶋は3着まで。
優勝した茨城の長塚智広選手は昨年11月の花月園メモリアル以来のGⅢ優勝。それ以来ずっと好調を維持し,強力メンバーのここも制しました。地元の平原に前を任されたものの,自分の競走に徹しての勝利。普通は新田が捲っている筈のレースで,やはりダッシュ力は驚異的。今年はビッグにも手が届くのではないかと思います。
まず僕自身の立場というものを明らかにしておけば,僕もまたスピノザと同様に,唯名論の立場を採ります。そしてその唯名論に対する姿勢というものは,もしかしたらスピノザ以上に徹底したものであるかもしれません。というのも,スピノザは第一部定義六において,絶対に無限なabsolute infinitum実体substantiamについては神Deumというということを,一応は定義したわけですが,僕はなんとなれば,絶対に無限な実体に関して,それを神ということばで表現しなくても構わないくらいに考えているからです。いい換えれば,第一部定義六を単に神に関しての定義Definitioであると考えるならば,僕にとってはこの定義自体が不要なのです。もちろん僕も,もしも神というに相応しい何かがあるのだとすれば,それは絶対に無限な実有ens absolute infinitumをおいてほかにはないということには同意しますが,だからといってそれを神といわなければならないというようには思いません。別のことばでそれを表現することが可能であるなら,それでもいいだろうと思うのです。
おそらくスピノザの哲学,ないしは『エチカ』に著されている思想というものを,こうした仕方で考えているのは僕だけではないだろうと思います。たとえば上野修さんは,スピノザの『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の解説書に,「無神論者」は宗教を肯定できるかという副題を付しました。ここでいう無神論者というのが,スピノザのことを意味しているのは明白です。すなわちスピノザは神を定義し,かつそれが実在するということを証明しているにも関わらず,上野さんはスピノザを無神論者と規定しているということになります。そしてこうした規定というのは,第一部定義六における神というものが,唯名論的な観点から,いわば任意的にそのようにいわれているにすぎないと考えているのでなければ,出てこないのではないかと思います。
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ただし,僕自身はスピノザがことばの真の意味において無神論者であると考えているわけではありません。もしも神が信仰fidesの対象objectumであるのなら,スピノザは間違いなく無神論者でしょう。しかし神が知性intellectusの対象subjectumであると考えた場合には,スピノザは無神論者ではないと思いますし,僕自身も無神論者ではないです。ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheが「神は死んだ」というとき,それは信仰の対象としての神が死んだという意味と同時に,知性の対象としての神が死んだという意味も含んでいると僕が考えているということは,以前に説明した通りであり,その場合には僕もニーチェよりスピノザの立場に立ちます。
浅井の前受けとなり3番手は長塚。新田がここを追走して中村が後方で周回。中村は上昇するも前は叩かず,長塚を牽制。打鐘前のバックで長塚がインを上昇。ちょうど打鐘のあたりで加藤をどかして番手に。一旦は連結が途切れたように見えましたが,平原-飯嶋-新田もつけ直しました。ホームから浅井が成り行き先行。村上が新田をどかすと,浮いた新田がバックで単独の捲り。いいスピードでしたが十分に引きつけてから長塚が発進すると新田の方がスピード負け。直線は関東勢の争いとなりましたが追撃を凌いで長塚が優勝。平原が2着で中を割ろうとするも飯嶋は3着まで。
優勝した茨城の長塚智広選手は昨年11月の花月園メモリアル以来のGⅢ優勝。それ以来ずっと好調を維持し,強力メンバーのここも制しました。地元の平原に前を任されたものの,自分の競走に徹しての勝利。普通は新田が捲っている筈のレースで,やはりダッシュ力は驚異的。今年はビッグにも手が届くのではないかと思います。
まず僕自身の立場というものを明らかにしておけば,僕もまたスピノザと同様に,唯名論の立場を採ります。そしてその唯名論に対する姿勢というものは,もしかしたらスピノザ以上に徹底したものであるかもしれません。というのも,スピノザは第一部定義六において,絶対に無限なabsolute infinitum実体substantiamについては神Deumというということを,一応は定義したわけですが,僕はなんとなれば,絶対に無限な実体に関して,それを神ということばで表現しなくても構わないくらいに考えているからです。いい換えれば,第一部定義六を単に神に関しての定義Definitioであると考えるならば,僕にとってはこの定義自体が不要なのです。もちろん僕も,もしも神というに相応しい何かがあるのだとすれば,それは絶対に無限な実有ens absolute infinitumをおいてほかにはないということには同意しますが,だからといってそれを神といわなければならないというようには思いません。別のことばでそれを表現することが可能であるなら,それでもいいだろうと思うのです。
おそらくスピノザの哲学,ないしは『エチカ』に著されている思想というものを,こうした仕方で考えているのは僕だけではないだろうと思います。たとえば上野修さんは,スピノザの『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の解説書に,「無神論者」は宗教を肯定できるかという副題を付しました。ここでいう無神論者というのが,スピノザのことを意味しているのは明白です。すなわちスピノザは神を定義し,かつそれが実在するということを証明しているにも関わらず,上野さんはスピノザを無神論者と規定しているということになります。そしてこうした規定というのは,第一部定義六における神というものが,唯名論的な観点から,いわば任意的にそのようにいわれているにすぎないと考えているのでなければ,出てこないのではないかと思います。
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ただし,僕自身はスピノザがことばの真の意味において無神論者であると考えているわけではありません。もしも神が信仰fidesの対象objectumであるのなら,スピノザは間違いなく無神論者でしょう。しかし神が知性intellectusの対象subjectumであると考えた場合には,スピノザは無神論者ではないと思いますし,僕自身も無神論者ではないです。ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheが「神は死んだ」というとき,それは信仰の対象としての神が死んだという意味と同時に,知性の対象としての神が死んだという意味も含んでいると僕が考えているということは,以前に説明した通りであり,その場合には僕もニーチェよりスピノザの立場に立ちます。