小倉競輪場で昨日まで4日間にわたって開催された第54回競輪祭の決勝。並びは成田-伏見の福島,武田-長塚-神山-飯嶋の茨城栃木,藤木ー山口の近畿中部で後閑が単騎。
前受けとなったのが藤木。後閑が続き成田が4番手,6番手から武田で周回。残り3周のバックから武田が上昇開始。ホームに入ると藤木が誘導を交わして武田が前に。引いた藤木がバックから巻き返していき,打鐘で武田を叩いて先行。後閑も続いて4番手に武田。すぐに成田が自力を出し,武田に迫ったところで長塚が牽制。この両者が絡み合ったままバックに入って武田が発進。番手は長塚が確保も神山は離れ後ろは成田。さらに伏見も離れて成田の後ろは飯嶋。この4人で前を飲み込み,危なげないまま武田が優勝。マークの長塚が4分の3車身差で2着。直線ゴール手前で成田を捕えた飯嶋が1車身差で3着となり,茨城栃木で上位を独占。
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優勝した茨城の武田豊樹選手は前回出走の取手記念からの連続優勝。ビッグは8月のサマーナイトフェスティバル以来の11勝目。GⅠは6月の高松宮記念杯以来で4勝目。競輪祭は初優勝。ここはメンバー構成から武田か長塚の優勝が濃厚と思っていました。長塚が成田と絡んだ分,脚を残せなかったという面はあるでしょうが,これだけ差をつけての優勝ですから強かったとしかいいようがありません。もちろんグランプリでも優勝候補でしょう。
ある観念ideaが人間の精神の現実的本性を構成する限りで神Deusのうちにあるといわれるとき,この観念が十全な観念idea adaequataであるか混乱した観念idea inadaequataであるかを問われない,いい換えればどちらの場合も意味し得るとしたら,もしも人間の精神mens humanaのうちに十全な観念があるときには,それはどのように神と関連付けられればよいのでしょうか。
その答えはすでに出ているといえます。なぜならスピノザ自身が,ある観念が人間の精神の本性naturaを構成する限りで神のうちにある場合には混乱した観念であるという言明を許容している,要するにこの言明は第二部定理七系の意味に反しないということを認めているからです。すなわちこれを逆に考えれば,ある観念が人間の精神の本性を構成する限りで神のうちで十全adaequatumであるといわれる場合に,初めてこの観念はその人間の精神のうちでも十全な観念であるということになります。
したがって第二部定理一一系のうちには,具体的にはみっつの意味が混在していると考えられることになるでしょう。なお,この系Corollariumは人間の精神が現実的に存在するといわれる場合にのみ妥当するとはいえませんから,ここではこの前提は外します。そして以下にAというのはある人間を意味します。
第一に,Xの観念がAの精神の本性を構成する限りで神のうちにあるといわれるとき,AはXを認識します。この場合,AのうちにあるXの観念は,十全な観念であるか混乱した観念であるかは問われません。
第二に,Xの観念がAの精神の本性を構成する限りで神のうちで十全であるといわれるとき,AはXを十全に認識します。
第三に,Xの観念がAの精神の本性を構成する限りで神のうちで混乱しているといわれる場合,AはXを混乱して認識します。また,Xの観念がAの精神の本性を構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りで神のうちにあるといわれる場合にも,AはXを混乱して認識します。このふたつの相違は,前者はAの精神のうちでXの観念が混乱しているという点を重視しているのに対し,後者は神のうちにあるXの観念は十全な観念であるということを重視しているという点に存すると考えられます。
それではこの理解が『エチカ』の内部で妥当するか,確認します。
前受けとなったのが藤木。後閑が続き成田が4番手,6番手から武田で周回。残り3周のバックから武田が上昇開始。ホームに入ると藤木が誘導を交わして武田が前に。引いた藤木がバックから巻き返していき,打鐘で武田を叩いて先行。後閑も続いて4番手に武田。すぐに成田が自力を出し,武田に迫ったところで長塚が牽制。この両者が絡み合ったままバックに入って武田が発進。番手は長塚が確保も神山は離れ後ろは成田。さらに伏見も離れて成田の後ろは飯嶋。この4人で前を飲み込み,危なげないまま武田が優勝。マークの長塚が4分の3車身差で2着。直線ゴール手前で成田を捕えた飯嶋が1車身差で3着となり,茨城栃木で上位を独占。
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優勝した茨城の武田豊樹選手は前回出走の取手記念からの連続優勝。ビッグは8月のサマーナイトフェスティバル以来の11勝目。GⅠは6月の高松宮記念杯以来で4勝目。競輪祭は初優勝。ここはメンバー構成から武田か長塚の優勝が濃厚と思っていました。長塚が成田と絡んだ分,脚を残せなかったという面はあるでしょうが,これだけ差をつけての優勝ですから強かったとしかいいようがありません。もちろんグランプリでも優勝候補でしょう。
ある観念ideaが人間の精神の現実的本性を構成する限りで神Deusのうちにあるといわれるとき,この観念が十全な観念idea adaequataであるか混乱した観念idea inadaequataであるかを問われない,いい換えればどちらの場合も意味し得るとしたら,もしも人間の精神mens humanaのうちに十全な観念があるときには,それはどのように神と関連付けられればよいのでしょうか。
その答えはすでに出ているといえます。なぜならスピノザ自身が,ある観念が人間の精神の本性naturaを構成する限りで神のうちにある場合には混乱した観念であるという言明を許容している,要するにこの言明は第二部定理七系の意味に反しないということを認めているからです。すなわちこれを逆に考えれば,ある観念が人間の精神の本性を構成する限りで神のうちで十全adaequatumであるといわれる場合に,初めてこの観念はその人間の精神のうちでも十全な観念であるということになります。
したがって第二部定理一一系のうちには,具体的にはみっつの意味が混在していると考えられることになるでしょう。なお,この系Corollariumは人間の精神が現実的に存在するといわれる場合にのみ妥当するとはいえませんから,ここではこの前提は外します。そして以下にAというのはある人間を意味します。
第一に,Xの観念がAの精神の本性を構成する限りで神のうちにあるといわれるとき,AはXを認識します。この場合,AのうちにあるXの観念は,十全な観念であるか混乱した観念であるかは問われません。
第二に,Xの観念がAの精神の本性を構成する限りで神のうちで十全であるといわれるとき,AはXを十全に認識します。
第三に,Xの観念がAの精神の本性を構成する限りで神のうちで混乱しているといわれる場合,AはXを混乱して認識します。また,Xの観念がAの精神の本性を構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りで神のうちにあるといわれる場合にも,AはXを混乱して認識します。このふたつの相違は,前者はAの精神のうちでXの観念が混乱しているという点を重視しているのに対し,後者は神のうちにあるXの観念は十全な観念であるということを重視しているという点に存すると考えられます。
それではこの理解が『エチカ』の内部で妥当するか,確認します。