スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

椿賞争奪戦&拭えない疑問

2012-12-17 18:55:59 | 競輪
 東日本では今年の最後の記念競輪となる伊東温泉記念の決勝。並びは飯野ー内藤の北日本,矢野-長塚の栃木茨城,阿竹ー筒井の中四国,園田-小岩の九州で,新田が単騎。
 スタートは阿竹が取って前受け。新田が3番手で園田が4番手,6番手が矢野で8番手に飯野で周回。残り3周のバックで飯野が上昇すると矢野がすかさずスイッチし,ホームでは矢野が飯野を叩いて前に。バックで阿竹が仕掛けていくと矢野も発進し,打鐘から先行争いかと思われましたが,3番手を確保した飯野が阿竹をブロックし,阿竹は外に浮いて矢野の先行に。園田はインをするすると上昇。しかしバックから新田が捲っていく方が早く,これに長塚が番手から応戦。結果的に長塚が新田を前に出させず,そのまま優勝。長塚に続いた新田が2着。長塚の後ろから飯野が3着。
 優勝した茨城の長塚智広選手は10月の向日町記念以来となる記念競輪級7勝目。当地は初制覇。競輪グランプリ出場が決定していて,怪我が最も怖いところですが,出走してきました。そうなると力が上ですし,さらによい目標を得ましたので,順当な勝利とはいえるでしょう。矢野が組み立てを失敗するのが最悪のケースでしたが,そうなるどころかうまく先行した時点で,すでに優勝をその掌中に半分以上は手に入れていたといっていいでしょう。

 第二部定理一二の新しい意味をめぐる考察は,ひとまずはこれで終了します。
 この意味が見出されることによって,僕が抱えていた第二部定理一二の問題はどのようになったでしょうか。結論からいえば,それは,その問題がもっている重みは軽減されたけれども,完全に解消されるには至っていないのです。
 もしもかつての第二部定理一二の意味でこの定理を理解するならば,人間は自分の身体の中に起こる事柄のすべてを十全に認識しなければならないということになります。しかし経験的に考えて,これをいうのは不条理ではないだろうかという疑問が,僕が最初にこの定理に抱いたことでした。それが今や,人間は自分の身体の中に起こることを認識はするけれども,しかしそれは十全な認識ではないということになったわけです。この点で,確かに当初の疑問の重みは軽減しています。
 しかし一方で,第二部定理一二の新しい意味の中には,たとえそれが混乱した認識なのではあったとしても,人間は自分の身体の中に起こることについては,それをことごとく認識する,いい換えれば自分の身体の中に起こるすべてのことの観念があるということはまだ含まれています。しかるに,たとえそれを混乱した観念であると結論しても,やはり経験的に考えれば,これをいうのは不条理なのではないだろうかという疑問を,僕は完全には拭いきれません。少なくとも僕自身について反省的に考えてみた場合に,僕の身体の中で生じているすべてのことを認識しているかと問われたならば,僕はその問いに対して肯定的な解答を与える気にはなれないのです。そしておそらく,このように考える人がほとんどなのではないだろうかと僕には思えるのです。
 したがって,第二部定理一二の意味からは,人間が十全に認識する自分の身体の中に起こることとは,具体的には何であるのかという疑問が生じできたのですが,それが混乱した認識であるとされても,同じ問いはやはり僕の中から自然と噴出してくるのです。そこでここからは,この問いに関連した考察を開始するということにします。人間が認識する,自分の身体の中に起こることを,具体的にはどう理解すればよいのでしょうか。
コメント
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