第55期王将戦七番勝負第五局から。
初手▲7六歩に対して△3ニ金。これはやや挑発的な手ですが,稀に見られます。これに対しては▲5六歩と突くのが最善とされ,この将棋もそう指しました。以下△3四歩▲5五歩△6二銀▲5八飛△4二銀▲4八王で,ここまではこの形ではよくある進行。
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ここで驚愕の一手が出たのでこの将棋は印象に深く刻まれています。それが△5四歩。相手が中飛車で自分が居玉ですから,普通はあり得ない手ですし,思いつくこともないような手ではないでしょうか。実戦は▲5四同歩△8八角成▲同銀△4五角▲7八金△2七角成▲5三角△5二金▲8六角成で,歩の損得なく双方が馬を作り合う手将棋に進展しました。
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第2図は確かに後手を持っても指せないということはない局面には感じられます。しかし第1図からの△5四歩というのは,あまりに大胆すぎる一手だという思いは今でも変わることはありません。
AとBが共にXの特質を構成するという点において同一のものとみなされるのであれば,AはBであるという命題を真の命題として成立させるのはXであるということ,これが本性と特質とを命題として立てた場合の結論であるということになります。実際,砂糖の場合でいえば,白いものは甘いものであるという言明,また円柱の場合でいうなら真上からみて円であるものは真横からみて長方形であるという言明は,それ自体としてみられるならば,偽の命題であるとしかいいようがありません。しかし各々が砂糖の,あるいは円柱の特質であるとみられる限りにおいては,真の命題,あるいは少なくとも部分的に真理を表現している,あるいは説明している記述であると考えることができるわけです。
ところで,身体の本性に変化が生じるということと,その身体を構成している部分の合一のあり方に変化が起こるということは,それ自体では同じ事柄の本性から必然的に帰結する特質であるとは必ずしもいえません。ですから,本性と特質との間にある関係から導出したこの結論を,そのまま利用するということはできません。したがって今度は,単に一般的な意味においてAとBとが同一の事柄の異なった側面であると理解されるような場合にも,AはBであるという命題が真の命題として成立するための条件として,本性と特質の場合のようなXなるものが,背後に必要とされるのか否かを探求しなければなりません。
この場合には,スピノザの哲学には,例として採用できる非常に相応しい概念があります。それは,十全な観念と真の観念との関係です。すなわちたとえば神の無限知性のうちにある観念があるとして,それはある一面,具体的にはその内的特徴から説明されるならば十全な観念であり,また別の一面,その外的特徴から説明されるならば真の観念であるわけです。いい換えれば十全な観念と真の観念とは,同じ事柄の本性から帰結するような特質であるとはいえませんが,同じある観念の,異なった側面であるといえるわけです。もちろんこのとき,僕は一般的な意味において観念といっているのではなくて,たとえばある観念,Xの観念というものをその標的にしていることは,十分に注意しておいてください。
初手▲7六歩に対して△3ニ金。これはやや挑発的な手ですが,稀に見られます。これに対しては▲5六歩と突くのが最善とされ,この将棋もそう指しました。以下△3四歩▲5五歩△6二銀▲5八飛△4二銀▲4八王で,ここまではこの形ではよくある進行。
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ここで驚愕の一手が出たのでこの将棋は印象に深く刻まれています。それが△5四歩。相手が中飛車で自分が居玉ですから,普通はあり得ない手ですし,思いつくこともないような手ではないでしょうか。実戦は▲5四同歩△8八角成▲同銀△4五角▲7八金△2七角成▲5三角△5二金▲8六角成で,歩の損得なく双方が馬を作り合う手将棋に進展しました。
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第2図は確かに後手を持っても指せないということはない局面には感じられます。しかし第1図からの△5四歩というのは,あまりに大胆すぎる一手だという思いは今でも変わることはありません。
AとBが共にXの特質を構成するという点において同一のものとみなされるのであれば,AはBであるという命題を真の命題として成立させるのはXであるということ,これが本性と特質とを命題として立てた場合の結論であるということになります。実際,砂糖の場合でいえば,白いものは甘いものであるという言明,また円柱の場合でいうなら真上からみて円であるものは真横からみて長方形であるという言明は,それ自体としてみられるならば,偽の命題であるとしかいいようがありません。しかし各々が砂糖の,あるいは円柱の特質であるとみられる限りにおいては,真の命題,あるいは少なくとも部分的に真理を表現している,あるいは説明している記述であると考えることができるわけです。
ところで,身体の本性に変化が生じるということと,その身体を構成している部分の合一のあり方に変化が起こるということは,それ自体では同じ事柄の本性から必然的に帰結する特質であるとは必ずしもいえません。ですから,本性と特質との間にある関係から導出したこの結論を,そのまま利用するということはできません。したがって今度は,単に一般的な意味においてAとBとが同一の事柄の異なった側面であると理解されるような場合にも,AはBであるという命題が真の命題として成立するための条件として,本性と特質の場合のようなXなるものが,背後に必要とされるのか否かを探求しなければなりません。
この場合には,スピノザの哲学には,例として採用できる非常に相応しい概念があります。それは,十全な観念と真の観念との関係です。すなわちたとえば神の無限知性のうちにある観念があるとして,それはある一面,具体的にはその内的特徴から説明されるならば十全な観念であり,また別の一面,その外的特徴から説明されるならば真の観念であるわけです。いい換えれば十全な観念と真の観念とは,同じ事柄の本性から帰結するような特質であるとはいえませんが,同じある観念の,異なった側面であるといえるわけです。もちろんこのとき,僕は一般的な意味において観念といっているのではなくて,たとえばある観念,Xの観念というものをその標的にしていることは,十分に注意しておいてください。