2013年最初のビッグ直前の開催となった四日市記念の決勝。並びは新田-斉藤登志信の北日本,木暮に中川,長塚-斉藤努の関東,深谷-柴崎ー村上の中部近畿。
中川と新田が飛び出し,中川が譲るように新田の前受け。選手紹介では北日本を追走していた長塚が3番手。5番手に木暮で7番手から深谷という周回に。深谷は残り2周のホームに入ってようやく上昇開始。バックに入ってスピードアップし新田を叩くと,長塚は番手に。打鐘過ぎにあっさりと長塚が深谷の後ろを奪い,村上に入れてもらうように柴崎が3番手,村上が4番手となってホームから深谷の先行。下げた新田が捲り発進すると斉藤登志信が離れて単騎に。新田はバック中央では深谷を捕えて先頭。長塚は切り替えたものの追いつけるような差ではなく,2車身の差をつけて新田が優勝。長塚も1車身差で安泰の2着。続いた柴崎を交わして村上が3着。
優勝した福島の新田祐大選手は2010年にSSカップみのりで優勝していますが,記念競輪はこれが初優勝。GⅠを勝っているくらいですから,記念競輪を勝つ力はあったのですが,競技に力を入れていたこともありますし,レースぶりもわりと単調すぎるところがあり,記念の優勝には手が届いていませんでした。まだこれから実績を積み上げていく選手で,今日のレースのようなスピードを持っているのですから,それをうまく生かせるようなレース運びができるようになれば,どんどん勝っていくことになるだろうと思っています。
事物が説明されるということが具体的にはどのような意味を有するのかということと,説明された事物の観念ideaがどのように神Deusと関連付けられるのかということに注意すれば,僕が提出した人間の精神の認識に関する結論は,次のような仕方でも示すことができるのかもしれません。
人間の身体corpusの本性essentiaの変化と,その身体を構成する部分の合一unioのあり方の変化は,同じ事柄の異なった側面です。このとき,前者はある事柄を,人間の身体の相の下に説明しているといえます。それに対して後者は,人間の身体を構成している部分の観点から説明しているということになります。よって前者の観念は,身体の観念の本性によって説明される限りでの神のうちにはあることになりますが,身体を組織している部分の観念の本性によって説明される限りでの神のうちにはありません。逆に,後者の観念は,身体の観念の本性によって説明される限りでは神のうちにあることができず,身体を構成する部分の観念の本性によって説明される限りで神のうちにあるということになります。各々が,同一の事柄の異なった側面に関して,どのような観点の下から説明されているのかということと,どのように説明される限りでの神のうちに,どのような観念があるのでなければならず,またどのような観念はあることができないのかということは,この点では完全にリンクしているということになります。
一方,第一部定理一六,また第二部定理七系からすれば,神のうちには無限に多くのinfinita観念があります。したがって,ある身体の観念の本性によって説明される限りでの神も,その身体を構成する部分の観念の本性によって説明される限りでの神も,この相から理解される神,いい換えれば神の無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusの一部を構成しているということになります。第二部定理一一系は,このことの一部だけを明示しているといえます。よって神の無限知性からみられる限り,これらは同一の事柄としてあるということになります。つまりこの観点から説明される限りでは,神はある人間の身体の本性の変化と,その身体を構成する部分の合一のあり方の変化の具体的内容を,同時に,あるいは並行して認識するということになるのです。
中川と新田が飛び出し,中川が譲るように新田の前受け。選手紹介では北日本を追走していた長塚が3番手。5番手に木暮で7番手から深谷という周回に。深谷は残り2周のホームに入ってようやく上昇開始。バックに入ってスピードアップし新田を叩くと,長塚は番手に。打鐘過ぎにあっさりと長塚が深谷の後ろを奪い,村上に入れてもらうように柴崎が3番手,村上が4番手となってホームから深谷の先行。下げた新田が捲り発進すると斉藤登志信が離れて単騎に。新田はバック中央では深谷を捕えて先頭。長塚は切り替えたものの追いつけるような差ではなく,2車身の差をつけて新田が優勝。長塚も1車身差で安泰の2着。続いた柴崎を交わして村上が3着。
優勝した福島の新田祐大選手は2010年にSSカップみのりで優勝していますが,記念競輪はこれが初優勝。GⅠを勝っているくらいですから,記念競輪を勝つ力はあったのですが,競技に力を入れていたこともありますし,レースぶりもわりと単調すぎるところがあり,記念の優勝には手が届いていませんでした。まだこれから実績を積み上げていく選手で,今日のレースのようなスピードを持っているのですから,それをうまく生かせるようなレース運びができるようになれば,どんどん勝っていくことになるだろうと思っています。
事物が説明されるということが具体的にはどのような意味を有するのかということと,説明された事物の観念ideaがどのように神Deusと関連付けられるのかということに注意すれば,僕が提出した人間の精神の認識に関する結論は,次のような仕方でも示すことができるのかもしれません。
人間の身体corpusの本性essentiaの変化と,その身体を構成する部分の合一unioのあり方の変化は,同じ事柄の異なった側面です。このとき,前者はある事柄を,人間の身体の相の下に説明しているといえます。それに対して後者は,人間の身体を構成している部分の観点から説明しているということになります。よって前者の観念は,身体の観念の本性によって説明される限りでの神のうちにはあることになりますが,身体を組織している部分の観念の本性によって説明される限りでの神のうちにはありません。逆に,後者の観念は,身体の観念の本性によって説明される限りでは神のうちにあることができず,身体を構成する部分の観念の本性によって説明される限りで神のうちにあるということになります。各々が,同一の事柄の異なった側面に関して,どのような観点の下から説明されているのかということと,どのように説明される限りでの神のうちに,どのような観念があるのでなければならず,またどのような観念はあることができないのかということは,この点では完全にリンクしているということになります。
一方,第一部定理一六,また第二部定理七系からすれば,神のうちには無限に多くのinfinita観念があります。したがって,ある身体の観念の本性によって説明される限りでの神も,その身体を構成する部分の観念の本性によって説明される限りでの神も,この相から理解される神,いい換えれば神の無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusの一部を構成しているということになります。第二部定理一一系は,このことの一部だけを明示しているといえます。よって神の無限知性からみられる限り,これらは同一の事柄としてあるということになります。つまりこの観点から説明される限りでは,神はある人間の身体の本性の変化と,その身体を構成する部分の合一のあり方の変化の具体的内容を,同時に,あるいは並行して認識するということになるのです。