昨日,長野市で開幕した第38期棋王戦五番勝負第一局。対戦成績は郷田真隆棋王が6勝で渡辺明竜王が10勝。
振駒で郷田棋王の先手となり,相掛り。先手が引き飛車,後手が浮飛車のよくある序盤から,後手の渡辺竜王が銀冠を目指したので,かなり速い段階から手将棋に。中盤は先手が自陣角を放ち,それに呼応した後手が飛車を回った端から手をつけて一進一退の難解な攻防が続きました。
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20手以上前に8一に桂馬がいる形で7三に桂馬を打った後手が跳ね出したところ。先手は単純に攻め合うのではなく,▲9六香△9五歩としてから▲4三歩成としました。△9六歩とすぐに取られて損のようなのですが,これが好手順だったよう。▲3三ととこちらの金を取り,△同金に▲6六金と食いちぎりました。後手はどこかで7八の金を取る手はあったので,すぐに△同歩とできなければいけないと思うのですが,先に△4一香と入手した香車で受け,▲4四歩としてから△6六歩。先手は食いちぎった狙いの▲4五桂。これで先手がはっきり優位に立ったよう。△3二金と逃げましたが,▲9六歩。
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この手が先手玉を安全にしながら次の▲2四歩を狙いに歩を入手するという一石二鳥の手。△2六香▲6八飛△9六飛の後,狙いの▲2四歩が決まり,先手が押し切りました。将棋の流れとして,後手は空振りに終わってしまった手が目立ち,その分だけ先手に利が出た一局だったというのが僕の印象です。
郷田棋王が先勝。第二局は23日です。
では,佐藤拓司がこの周辺の問題をどのように処理しているかを確認しておくことにします。
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まず第一に,第二部定理一二でいわれていること,つまり人間の精神は自分の身体の中に起こることを知覚するということと,人間の身体を構成している部分の中には,その人間の精神によっては認識されないことが起こり得るということが,両立する,いい換えればこのふたつは矛盾を来さないということは,佐藤が『堕天使の倫理』において主張していることのひとつです。
次に,このことを主張するということは,人間の身体の中に何事かが起こるのであれば,その人間の精神はそれを知覚するということが含まれていなければなりません。これはそれ自体で明らかだといえます。したがって,もしも人間の身体を構成する部分の中にあることが生じて,それがその人間の身体の中に何事かが生じるということに直結するのであれば,その前者を原因で後者が結果であると理解するにせよ,あるいはこの両者を同一の事柄の異なった側面であると理解するにせよ,何らかの観念がその人間の精神のうちには発生するということに関しては,佐藤は同意するものと思われます。佐藤の論考はこのこと自体をテーマとしているわけではないので,ここに示したことについては何も語られてはいないのですが,さすがにこれを否定するということはできないだろうと思います。
それでは,この場合に人間の精神は,具体的にどのような事柄を認識すると佐藤は考えているのかということが,最後の課題として出てきます。もっといえば,この場合には人間の精神が,自分の身体を組織している部分の中に起こることというのを,具体的な現象として認識し得るのか,それともそういった具体的な事柄は認識し得ず,むしろ単に自分の身体の中で何かが起こっているということ,何であるかは分からないけれども何か,僕のここまでの考察でのいい方に従うのであれば,自分の身体の本性に何らかの変化は起こっているということだけを知覚するのかということです。
この点に関しても,佐藤は具体的には何もいっていません。しかしその論考からは,結論を推測することができます。
振駒で郷田棋王の先手となり,相掛り。先手が引き飛車,後手が浮飛車のよくある序盤から,後手の渡辺竜王が銀冠を目指したので,かなり速い段階から手将棋に。中盤は先手が自陣角を放ち,それに呼応した後手が飛車を回った端から手をつけて一進一退の難解な攻防が続きました。
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20手以上前に8一に桂馬がいる形で7三に桂馬を打った後手が跳ね出したところ。先手は単純に攻め合うのではなく,▲9六香△9五歩としてから▲4三歩成としました。△9六歩とすぐに取られて損のようなのですが,これが好手順だったよう。▲3三ととこちらの金を取り,△同金に▲6六金と食いちぎりました。後手はどこかで7八の金を取る手はあったので,すぐに△同歩とできなければいけないと思うのですが,先に△4一香と入手した香車で受け,▲4四歩としてから△6六歩。先手は食いちぎった狙いの▲4五桂。これで先手がはっきり優位に立ったよう。△3二金と逃げましたが,▲9六歩。
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この手が先手玉を安全にしながら次の▲2四歩を狙いに歩を入手するという一石二鳥の手。△2六香▲6八飛△9六飛の後,狙いの▲2四歩が決まり,先手が押し切りました。将棋の流れとして,後手は空振りに終わってしまった手が目立ち,その分だけ先手に利が出た一局だったというのが僕の印象です。
郷田棋王が先勝。第二局は23日です。
では,佐藤拓司がこの周辺の問題をどのように処理しているかを確認しておくことにします。
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まず第一に,第二部定理一二でいわれていること,つまり人間の精神は自分の身体の中に起こることを知覚するということと,人間の身体を構成している部分の中には,その人間の精神によっては認識されないことが起こり得るということが,両立する,いい換えればこのふたつは矛盾を来さないということは,佐藤が『堕天使の倫理』において主張していることのひとつです。
次に,このことを主張するということは,人間の身体の中に何事かが起こるのであれば,その人間の精神はそれを知覚するということが含まれていなければなりません。これはそれ自体で明らかだといえます。したがって,もしも人間の身体を構成する部分の中にあることが生じて,それがその人間の身体の中に何事かが生じるということに直結するのであれば,その前者を原因で後者が結果であると理解するにせよ,あるいはこの両者を同一の事柄の異なった側面であると理解するにせよ,何らかの観念がその人間の精神のうちには発生するということに関しては,佐藤は同意するものと思われます。佐藤の論考はこのこと自体をテーマとしているわけではないので,ここに示したことについては何も語られてはいないのですが,さすがにこれを否定するということはできないだろうと思います。
それでは,この場合に人間の精神は,具体的にどのような事柄を認識すると佐藤は考えているのかということが,最後の課題として出てきます。もっといえば,この場合には人間の精神が,自分の身体を組織している部分の中に起こることというのを,具体的な現象として認識し得るのか,それともそういった具体的な事柄は認識し得ず,むしろ単に自分の身体の中で何かが起こっているということ,何であるかは分からないけれども何か,僕のここまでの考察でのいい方に従うのであれば,自分の身体の本性に何らかの変化は起こっているということだけを知覚するのかということです。
この点に関しても,佐藤は具体的には何もいっていません。しかしその論考からは,結論を推測することができます。