スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

得の要求&実在性の変化の認識

2013-02-07 19:07:24 | 歌・小説
 『それから』では,代助の父である得が,代助に対してしきりに結婚を勧めます。物語中の代助の年齢は29歳。この年になって独身でいるのは体裁が悪いというのが得が代助に伝える表向きの理由です。しかしそれはあくまでも表面上のものであって,裏には別の意図があります。それは代助自身もよく理解しています。
                         
 得は家督と自身が起こした会社の経営権を,長男である誠吾に譲るつもりでいます。しかしこの時点ではその会社の経営があまり思わしくありません。よって経営を安定させた後に,誠吾を社長に据える腹積もりです。このとき,得が代助に進める結婚というのは,有力者の娘が相手のもので,会社の安定に一役買うものでした。いわば一種の政略結婚であったわけです。
 戦前の家父長制における代助の役割は,兄の代用および補助です。そして会社の危機というのは,それを継ぐべき存在としての誠吾の危機であるという意味があります。それを踏まえれば,このときに得が代助に政略結婚を勧めるのは,次男に対する当然の要求であったといえます。そもそも30近くの代助が,稼ぎもなしに安定した暮らしができたのは,得の庇護の下にあったからです。そして得が代助を庇護していたのは,こうした場合に備えていたと考えることもできると思います。
 最終的に代助は得の要求を拒絶し,それを理由に得からの金銭的援助を受けることができなくなります。できなくなって職を求めるというところで『それから』は終りますから,その後どうなったのかは分かりません。
 『それから』の主題は,代助が友人であった,『明暗』の小林の前身のひとりと思われる平岡に斡旋した三千代への愛を意識し,その愛に素直に生き直そうとする物語であるといえるでしょう。しかし一方では,戦前の家父長制という制度化において,父に結婚を勧められる次男が,その制度から脱して,自分の愛に忠実に生きようとする物語であるという一面も,確かに含まれているように僕は思います。

 補足で用いた例とは逆に,もしも人間の身体の本性が変化するような運動が生じる場合には,その本性の変化がその人間の精神によって知覚されなければならないわけですが,同時にこれは,自分の身体の実在性の変化としても知覚されなければならないということだと僕は判断します。僕は事物の本性と実在性を,同一の事柄の異なった側面であると考えていますから,このことはそれ自体で当然のことなのです。
 このとき,人間の精神の認識の具体的内容が,単に自分の身体の本性の変化の知覚に留まるのであって,具体的に生じている現象そのものではないということは,僕の結論として明らかにしました。また,佐藤拓司の結論も同様のものであると僕が理解しているということも説明した通りです。では,自分の身体の実在性の変化という点については,人間の精神はそれをどのように知覚するのでしょうか。
 僕はたぶんそれを,人間は自分の身体の実在性の移行として知覚するのだろうと考えます。スピノザの哲学の実在性の移行には二通りありますので,それぞれの場合に応じた知覚になるのだろうと考えるのです。
 いうまでもなく二通りの移行とは,ひとつはより大なる実在性,第二部定義六によりより大なる完全性からより小なる完全性への移行であり,もうひとつは,より小なる完全性からより大なる完全性への移行を意味します。佐藤が『堕天使の倫理』で用いている消化不良をここでも例材として扱うなら,それは前者の移行であるといえるでしょう。少なくとも人間が消化不良を起こすことによって,その実在性がより大きくなるということは考えられないからです。
 するとこれは第三部諸感情の定義三により,その人間にとっての悲しみであるということになります。したがって,消化不良の場合,人間の精神は,たとえば腹痛とか吐き気などを通して,自分の身体の本性に変化が生じているということを知覚するのですが,それと同時に,自分の身体の本性の変化を,力という観点の下からは,より大なる完全性からより小なる完全性への移行である感情の悲しみとして知覚するということになるのだと理解します。 
コメント
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