岩手県の大船渡市民文化会館での対局となった第62期王将戦七番勝負第三局。
佐藤康光王将の先手で渡辺明竜王は横歩取りを選択。△3三角-△8四飛-△5二玉-△5一金型に組みました。先手は▲6八王-▲3六歩型から早めに角交換。後手は左銀を繰り出す将棋に。
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2三の銀が上がったところ。ここで▲5六角と早々に手放しました。結果論ですがこれが名手で,先手が盤面の制圧に成功したようです。ここから△2五銀▲2六歩△3四銀▲4六歩△2三銀▲2五歩で初日終了。昨晩この展開をみて,こういう指し方をしなければいけないようでは後手が大変なのではないかという印象を抱いていました。封じ手は△1四銀で,▲2四歩△2六歩▲同飛△1五銀▲2八飛△2四銀。
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相変らず後手の苦心の指し回しに先手は自然に対応しているだけといった感じ。この後,先手が後手の端攻めを誘うような指し方。これに対して玉が自ら受けに出て,最後は逆用して入玉。いかにもらしい展開に持ち込んだ先手が勝っています。
佐藤王将がひとつ返して1勝2敗。第三局は来週の火曜と水曜です。
ここまで,実在性の変化の認識について,悲しみの知覚,そして悪の認識という観点から説明してきたのは,『堕天使の倫理』で採り上げられている消化不良を例材として扱ってきたからです。佐藤はそこで,人間の身体の本性の変化,佐藤自身のことばでいえば,人間の身体を構成する部分の一定の比率あるいは割合の変化に関しては,これ以外に具体的な例を提出していません。しかし,人間の身体の本性の変化を力という観点,すなわちその人間の身体の実在性ないしは完全性の変化として把握するならば,消化不良によって説明されるのとは異なった変化,いい換えれば逆向きの変化というのが生じ得るということはもちろんのことです。おそらく佐藤自身も,このことは当然のこととして認めるものと思います。
消化不良の場合の実在性の移行は,より大なる実在性からより小なる実在性への移行でした。しかし,人間の身体を構成している部分の合一のあり方に変化が生じた場合に,必然的にその人間の身体の完全性が,より大なる完全性からより小なる完全性へと移行するとは限りません。むしろそのことによって,より小なる完全性からより大なる完全性へと移行するという場合も,当然のことながら考えられるわけですし,そうしたことが現実的に生じているといえるでしょう。
これに関してまた具体的な例を出して説明していけば,結局のところ消化不良を例とした場合と同じことを繰り返すことになるでしょう。ですからここでは簡略化した結論だけを述べておきます。この場合には人間の精神はそれを喜びとして知覚します。そしてその喜びが意識されるなら,第四部定理八により,それは善と認識されます。しかし場合によってはそれはより大きな善と比較されて小さな善とみなされ,悪とも認識され得るでしょう。しかしこの移行がその人間にとって第一義的には善であることは間違いありません。また,人間は単なる知識として,善なるものを認識し得ますから,こうした経験が人間にとって善の認識の絶対条件ではありません。しかしこうした喜びの知覚の認識が,善の認識に結びつくことも,悪の場合と同様でしょう。
今回の考察はこれをもって終了とします。
佐藤康光王将の先手で渡辺明竜王は横歩取りを選択。△3三角-△8四飛-△5二玉-△5一金型に組みました。先手は▲6八王-▲3六歩型から早めに角交換。後手は左銀を繰り出す将棋に。
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2三の銀が上がったところ。ここで▲5六角と早々に手放しました。結果論ですがこれが名手で,先手が盤面の制圧に成功したようです。ここから△2五銀▲2六歩△3四銀▲4六歩△2三銀▲2五歩で初日終了。昨晩この展開をみて,こういう指し方をしなければいけないようでは後手が大変なのではないかという印象を抱いていました。封じ手は△1四銀で,▲2四歩△2六歩▲同飛△1五銀▲2八飛△2四銀。
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相変らず後手の苦心の指し回しに先手は自然に対応しているだけといった感じ。この後,先手が後手の端攻めを誘うような指し方。これに対して玉が自ら受けに出て,最後は逆用して入玉。いかにもらしい展開に持ち込んだ先手が勝っています。
佐藤王将がひとつ返して1勝2敗。第三局は来週の火曜と水曜です。
ここまで,実在性の変化の認識について,悲しみの知覚,そして悪の認識という観点から説明してきたのは,『堕天使の倫理』で採り上げられている消化不良を例材として扱ってきたからです。佐藤はそこで,人間の身体の本性の変化,佐藤自身のことばでいえば,人間の身体を構成する部分の一定の比率あるいは割合の変化に関しては,これ以外に具体的な例を提出していません。しかし,人間の身体の本性の変化を力という観点,すなわちその人間の身体の実在性ないしは完全性の変化として把握するならば,消化不良によって説明されるのとは異なった変化,いい換えれば逆向きの変化というのが生じ得るということはもちろんのことです。おそらく佐藤自身も,このことは当然のこととして認めるものと思います。
消化不良の場合の実在性の移行は,より大なる実在性からより小なる実在性への移行でした。しかし,人間の身体を構成している部分の合一のあり方に変化が生じた場合に,必然的にその人間の身体の完全性が,より大なる完全性からより小なる完全性へと移行するとは限りません。むしろそのことによって,より小なる完全性からより大なる完全性へと移行するという場合も,当然のことながら考えられるわけですし,そうしたことが現実的に生じているといえるでしょう。
これに関してまた具体的な例を出して説明していけば,結局のところ消化不良を例とした場合と同じことを繰り返すことになるでしょう。ですからここでは簡略化した結論だけを述べておきます。この場合には人間の精神はそれを喜びとして知覚します。そしてその喜びが意識されるなら,第四部定理八により,それは善と認識されます。しかし場合によってはそれはより大きな善と比較されて小さな善とみなされ,悪とも認識され得るでしょう。しかしこの移行がその人間にとって第一義的には善であることは間違いありません。また,人間は単なる知識として,善なるものを認識し得ますから,こうした経験が人間にとって善の認識の絶対条件ではありません。しかしこうした喜びの知覚の認識が,善の認識に結びつくことも,悪の場合と同様でしょう。
今回の考察はこれをもって終了とします。