4日に仙台市で指された第61期王座戦五番勝負第一局。対戦成績は羽生善治王座が5勝,中村太地六段は0勝。
振駒で中村六段の先手。羽生王座の作戦は9筋を突き合っての一手損角換り1-Ⅱ。非常に難しい将棋でしたので,僕の印象に残ったふたつの局面を紹介します。
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ここで先手から▲3五歩と仕掛けました。後手は△同歩▲4五桂に△同銀▲同歩と対応。後で馬を作りつつ駒損を回復する手を視野に入れた指し回し。とはいえ,開戦の直後に駒損を感受する受け方をするのは理屈に合わないような印象を受けました。
少し進んで第2図に。
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ここで先手は▲7九玉と引きました。終局直後に並べたとき,この手が先手の勝因になったのではないかと感じました。後手の感想にこれで困っているとあり,確かに好手であったようです。まだ100手近くも続くのですから,勝着というには語弊があるでしょうが,この局面で早逃げしたのは,中村六段の才能を見せつけた手であったように思います。
この後,先手もさすがに最善を続けることはできなかったようで,瞬間的には後手にチャンス到来の局面もあったようです。それでも全般的には押していたといえる先手が勝ちきりました。羽生王座のコメントが相手を称えるようなものが多く,余裕なのかもしれませんが,いかにも将棋を楽しんでいるという印象です。
中村六段が先勝。第二局は18日です。
ある観念が内的特徴からみられるなら,それは十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであるということが,観念対象ideatumとなってある知性の一部を構成すると仮定します。なお,この仮定は,こうした事柄が観念として十全に認識されているという仮定なのであり,ことばすなわち記号として混乱して表象されているという意味ではありません。
この仮定のうちには,その知性のうちに,観念の内的特徴といわれる場合の内的特徴の何たるか,また,内的特徴からみられた観念の何たるかが,同時に存在しているということが含意されていると僕は考えます。というか,より正確を期していうならば,そうしたことがその知性のうちに十全に把握されていることによって,内的特徴からみられる観念は十全であるか混乱しているかのどちらかであるということも,十全に把握され得るといえるのではないでしょうか。もしも単にことばの上だけであれば,何を十全な観念といい,また何を混乱した観念というのかということさえ把握できるなら,このことは表象され得ます。あるいは第二部定理一七により,必然的に表象されるのだとすらいえるかもしれません。しかしideatumとして十全に認識されるという仮定においては,それだけでは明らかに不十分であるといえるでしょう。
内的特徴からみられた観念の何たるかとか,観念の内的特徴の何たるかというのは,それら各々の本性を示す,あるいは少なくともその本性を含んでいると理解しなければなりません。これは第二部定理七から明らかだといえます。しかしもしもそうしたことをある知性が十全に把握するならば,自ずからそうしてみられるあらゆる観念が,十全であるか混乱しているかのどちらかであり,両方ではないということが出てきます。したがって少なく見積もっても,この観念は,内的特徴とかそこからみられる観念の,特質ではあるということになります。ある事柄が事物の本性から必然的に生じるなら,その事柄は特質であるといわれるからです。
つまり,十全であるといわれるのか,混乱しているといわれるのかということは,実は大した意味をもっていないことになります。
振駒で中村六段の先手。羽生王座の作戦は9筋を突き合っての一手損角換り1-Ⅱ。非常に難しい将棋でしたので,僕の印象に残ったふたつの局面を紹介します。
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ここで先手から▲3五歩と仕掛けました。後手は△同歩▲4五桂に△同銀▲同歩と対応。後で馬を作りつつ駒損を回復する手を視野に入れた指し回し。とはいえ,開戦の直後に駒損を感受する受け方をするのは理屈に合わないような印象を受けました。
少し進んで第2図に。
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ここで先手は▲7九玉と引きました。終局直後に並べたとき,この手が先手の勝因になったのではないかと感じました。後手の感想にこれで困っているとあり,確かに好手であったようです。まだ100手近くも続くのですから,勝着というには語弊があるでしょうが,この局面で早逃げしたのは,中村六段の才能を見せつけた手であったように思います。
この後,先手もさすがに最善を続けることはできなかったようで,瞬間的には後手にチャンス到来の局面もあったようです。それでも全般的には押していたといえる先手が勝ちきりました。羽生王座のコメントが相手を称えるようなものが多く,余裕なのかもしれませんが,いかにも将棋を楽しんでいるという印象です。
中村六段が先勝。第二局は18日です。
ある観念が内的特徴からみられるなら,それは十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであるということが,観念対象ideatumとなってある知性の一部を構成すると仮定します。なお,この仮定は,こうした事柄が観念として十全に認識されているという仮定なのであり,ことばすなわち記号として混乱して表象されているという意味ではありません。
この仮定のうちには,その知性のうちに,観念の内的特徴といわれる場合の内的特徴の何たるか,また,内的特徴からみられた観念の何たるかが,同時に存在しているということが含意されていると僕は考えます。というか,より正確を期していうならば,そうしたことがその知性のうちに十全に把握されていることによって,内的特徴からみられる観念は十全であるか混乱しているかのどちらかであるということも,十全に把握され得るといえるのではないでしょうか。もしも単にことばの上だけであれば,何を十全な観念といい,また何を混乱した観念というのかということさえ把握できるなら,このことは表象され得ます。あるいは第二部定理一七により,必然的に表象されるのだとすらいえるかもしれません。しかしideatumとして十全に認識されるという仮定においては,それだけでは明らかに不十分であるといえるでしょう。
内的特徴からみられた観念の何たるかとか,観念の内的特徴の何たるかというのは,それら各々の本性を示す,あるいは少なくともその本性を含んでいると理解しなければなりません。これは第二部定理七から明らかだといえます。しかしもしもそうしたことをある知性が十全に把握するならば,自ずからそうしてみられるあらゆる観念が,十全であるか混乱しているかのどちらかであり,両方ではないということが出てきます。したがって少なく見積もっても,この観念は,内的特徴とかそこからみられる観念の,特質ではあるということになります。ある事柄が事物の本性から必然的に生じるなら,その事柄は特質であるといわれるからです。
つまり,十全であるといわれるのか,混乱しているといわれるのかということは,実は大した意味をもっていないことになります。