ニーチェが自身をディオニュソスになぞらえるとき,同時に反キリストとしての自分を意識していたということは,間違いないと思います。ニーチェには『アンチクリスト』なる著書もあるくらいですから,ニーチェがそういう立場にいたということは,事実として疑い得ません。ただ,僕自身の受け止め方でいえば,ニーチェが反キリストを主張するとき,ひとつの特徴があるように思えるのです。
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当の『アンチクリスト』を読んでもそうした印象が否めないのですが,ニーチェは新約聖書の福音書,とりわけ共観福音書でイエスの言動が語られているとき,それを肯定的にとらえているように僕には感じられます。ニーチェの立場からすると,共観福音書で示されているイエスの教えのうちには,反対しなければならないような内容が明らかに含まれているように思いますし,実際にそうした主張がされていないとはいえないのですが,それを差し引いても,イエスに対してはニーチェはむしろ肯定的な評価を下しているように思えるのです。
ニーチェが批判するのは,そのイエスをキリスト=救世主とする立場に対してです。なので新約聖書でいえば,多くの手紙が収録されているパウロに対しては,ニーチェは非常に否定的です。ニーチェのうちには,パウロはイエスをキリストに貶めてしまったのだというような感覚があったのではないでしょうか。
イエスとキリストとを分けるという考え方は,僕がキリスト教神学とみなす思想のうちにもあるにはあるのです。そしてニーチェの立場というのは,そうした神学者と意外に近いのではないかと思えます。ニーチェの反キリストは,文字通りに反キリストなのであって,反イエスであるとはいえないと僕は理解しています。
やや駆け足になってしまいました。もう少し詳しい説明が必要でしょう。
まず,ある事物の本性から,必然的にいくつかの特質が生じます。現在の考察と関係させるなら,このことは第一部定理一六と第一部定理二五系から論証するのが本筋です。ただここでは第一部定理三六をこのことの単独の論拠としてあげておきます。したがって,Xの本性の十全な観念,これはXの十全な観念というのと事実上は同一であると考えて構いませんが,そこからはそのXの特質の観念が流出してきます。すなわちある知性がXを十全に認識するならば,その知性は自動機械のようにXの特質も十全に認識するということになります。
ここでは,観念がその内的特徴から把握される場合について,それが混乱した観念でないのなら十全な観念であるということを,観念の内的特徴そのもの,あるいは内的特徴からみられる観念の特質であるというように理解しています。したがって混乱していなければ十全であるということが十全に認識されるということは,観念の内的特徴とか内的特徴からみられた観念について,十全に認識されているということが前提されているというように考えなければなりません。事物の本性から事物の特質が流出するのであって,事物の特質から事物の本性が流出するのではないからです。あくまでも僕の考え方ではありますが,このことは,ふたつの個物に同一の訳を与えても構わないと僕が判断するときに論拠のひとつとした,第二部自然学②補助定理七備考でスピノザが示していることを,間接無限様態の特質として理解したときにした主張と,並列的な関係にあります。
よって,観念がその内的特徴からみられた場合,それが混乱した観念でないのであれば十全な観念であるということは,命題としては内的特徴からみられた観念に対する否定を含んでいるとしか考えられないのですが,観念として知性によって十全に把握される場合には,少なくともそれと同じ意味においての否定を含んでいるとはいえないということは明らかです。むしろこのことは,内的特徴からみられた観念についてのある肯定を前提しているというように理解しなければならないのだと思います。
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当の『アンチクリスト』を読んでもそうした印象が否めないのですが,ニーチェは新約聖書の福音書,とりわけ共観福音書でイエスの言動が語られているとき,それを肯定的にとらえているように僕には感じられます。ニーチェの立場からすると,共観福音書で示されているイエスの教えのうちには,反対しなければならないような内容が明らかに含まれているように思いますし,実際にそうした主張がされていないとはいえないのですが,それを差し引いても,イエスに対してはニーチェはむしろ肯定的な評価を下しているように思えるのです。
ニーチェが批判するのは,そのイエスをキリスト=救世主とする立場に対してです。なので新約聖書でいえば,多くの手紙が収録されているパウロに対しては,ニーチェは非常に否定的です。ニーチェのうちには,パウロはイエスをキリストに貶めてしまったのだというような感覚があったのではないでしょうか。
イエスとキリストとを分けるという考え方は,僕がキリスト教神学とみなす思想のうちにもあるにはあるのです。そしてニーチェの立場というのは,そうした神学者と意外に近いのではないかと思えます。ニーチェの反キリストは,文字通りに反キリストなのであって,反イエスであるとはいえないと僕は理解しています。
やや駆け足になってしまいました。もう少し詳しい説明が必要でしょう。
まず,ある事物の本性から,必然的にいくつかの特質が生じます。現在の考察と関係させるなら,このことは第一部定理一六と第一部定理二五系から論証するのが本筋です。ただここでは第一部定理三六をこのことの単独の論拠としてあげておきます。したがって,Xの本性の十全な観念,これはXの十全な観念というのと事実上は同一であると考えて構いませんが,そこからはそのXの特質の観念が流出してきます。すなわちある知性がXを十全に認識するならば,その知性は自動機械のようにXの特質も十全に認識するということになります。
ここでは,観念がその内的特徴から把握される場合について,それが混乱した観念でないのなら十全な観念であるということを,観念の内的特徴そのもの,あるいは内的特徴からみられる観念の特質であるというように理解しています。したがって混乱していなければ十全であるということが十全に認識されるということは,観念の内的特徴とか内的特徴からみられた観念について,十全に認識されているということが前提されているというように考えなければなりません。事物の本性から事物の特質が流出するのであって,事物の特質から事物の本性が流出するのではないからです。あくまでも僕の考え方ではありますが,このことは,ふたつの個物に同一の訳を与えても構わないと僕が判断するときに論拠のひとつとした,第二部自然学②補助定理七備考でスピノザが示していることを,間接無限様態の特質として理解したときにした主張と,並列的な関係にあります。
よって,観念がその内的特徴からみられた場合,それが混乱した観念でないのであれば十全な観念であるということは,命題としては内的特徴からみられた観念に対する否定を含んでいるとしか考えられないのですが,観念として知性によって十全に把握される場合には,少なくともそれと同じ意味においての否定を含んでいるとはいえないということは明らかです。むしろこのことは,内的特徴からみられた観念についてのある肯定を前提しているというように理解しなければならないのだと思います。