『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には,僕が知らなかったことがたくさんありました。さらには間違って理解していたということもありました。そのうちのひとつが,スピノザとヨハン・デ・ウィットJan de Wittあるいはヤン・デ・ウィットとの関係でした。
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ヨハンは1625年産まれ。若い頃は数学に大きな興味をもっていました。この当時のオランダは,総督派と共和派の政治的対立があり,ヨハンの父のヤコブは共和派。1650年にその父が総督派によって逮捕されるという一件がありました。ヨハンは大学では法律を学んでいたこともあり父のために奔走。父は釈放。その直後に当時の総督が急死し,ヨハンは市の法律顧問に任命されました。この後,ヨハンは総督の廃止を指導。政治的な意味でもその地位を高め,1653年には,法律顧問という立場でありながら,オランダの事実上の最高権力者になりました。スピノザが1632年産まれですから,これらはすべてスピノザが生きていた時代のオランダでの出来事であったことになります。
父と同様にヨハンも共和主義者です。このとき,共和主義者というのはふたつの意味があるというのが,僕の誤解の発端でした。共和主義者であるということのひとつの意味は,立憲制を支持し,君主制,これは総督や総司令官といった,事実上の君主が支配する政治制度を含めますが,その意味での君主制に敵対するということです。スピノザはこれに近い立場で,だからヨハンとスピノザは,良好な関係にあったと僕は思い込んでいたのです。
しかしナドラーSteven Nadlerによれば,共和主義者のもうひとつの意味は,民主主義者ではないということです。スピノザは政治制度としては民主主義者でしたから,この点ではむしろヨハンとは立場を異にしているといわなければなりません。そして実際に両者の間には,イデオロギー的な溝があったと理解するべきであったのです。
ここからは僕の想像です。
祖母が養女に出た先というのは,赤の他人の家であったというわけではなく,何らかの親類筋であったと思われます。そしてその一家は,祖母の故郷である秋田か,そうでなくともその近辺に住んでいたものと思われます。なぜなら,後に祖母はまた秋田の実家に戻っている筈なのです。そうでないと,現在もこの秋田の実家から繋がる家系の人たちとの関係が継続しているということの説明がつかないように思えるからです。これは前に書きましたが,その中には米農家がいまして,僕の家ではそこから米を買っているのです。さらにいえば,いくら養女先で義理の兄ないしは弟としての関係があったとはいえ,他人であったとすれば,秋田を出た後も交友関係が継続するとは考えにくいように思えるからです。
祖母がいつどのような事情から秋田を出たのかは僕は知りません。養女先の人に関してはなおさらです。そもそも,僕が知る限りでは,祖母はその旦那,つまり僕の母の父で,僕の祖父,そして今はアパートの叔父夫婦とその一人娘の5人で大和市内に住んでいました。つまりそれが母の実家なのであり,僕にとって母の実家とは大和なのです。しかし母によれば,母が子どもの頃は上大岡に住んでいたとのこと。近くにある笹下の拘置所で映画の君の名はの撮影があり,それを見学に行ったことがあるという話で,要するに少なくともその頃は上大岡にいたということになります。僕は産まれていませんから,経験としてそれを知らないのは当然ですが,詳しい話を聞いたこともないのです。つまり僕にとって,祖母の人生の大半は知らないことで埋め尽くされているといえるでしょう。僕の記憶の以前のことに関しては,僅かな事柄を断片的に教えられているという程度なのです。
この日,3人が白楽に行ったというのは,もちろんそこの家を訪ねたのです。白楽というのは僕がかつて火事を目撃した六角橋の近く。僕が散歩として歩いていったなら,おそらく1時間半くらいで行かれる場所です。普通は歩いていく場所ではありませんが,自動車で行くのですから,そんなに遠出をしたというわけではありません。
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ヨハンは1625年産まれ。若い頃は数学に大きな興味をもっていました。この当時のオランダは,総督派と共和派の政治的対立があり,ヨハンの父のヤコブは共和派。1650年にその父が総督派によって逮捕されるという一件がありました。ヨハンは大学では法律を学んでいたこともあり父のために奔走。父は釈放。その直後に当時の総督が急死し,ヨハンは市の法律顧問に任命されました。この後,ヨハンは総督の廃止を指導。政治的な意味でもその地位を高め,1653年には,法律顧問という立場でありながら,オランダの事実上の最高権力者になりました。スピノザが1632年産まれですから,これらはすべてスピノザが生きていた時代のオランダでの出来事であったことになります。
父と同様にヨハンも共和主義者です。このとき,共和主義者というのはふたつの意味があるというのが,僕の誤解の発端でした。共和主義者であるということのひとつの意味は,立憲制を支持し,君主制,これは総督や総司令官といった,事実上の君主が支配する政治制度を含めますが,その意味での君主制に敵対するということです。スピノザはこれに近い立場で,だからヨハンとスピノザは,良好な関係にあったと僕は思い込んでいたのです。
しかしナドラーSteven Nadlerによれば,共和主義者のもうひとつの意味は,民主主義者ではないということです。スピノザは政治制度としては民主主義者でしたから,この点ではむしろヨハンとは立場を異にしているといわなければなりません。そして実際に両者の間には,イデオロギー的な溝があったと理解するべきであったのです。
ここからは僕の想像です。
祖母が養女に出た先というのは,赤の他人の家であったというわけではなく,何らかの親類筋であったと思われます。そしてその一家は,祖母の故郷である秋田か,そうでなくともその近辺に住んでいたものと思われます。なぜなら,後に祖母はまた秋田の実家に戻っている筈なのです。そうでないと,現在もこの秋田の実家から繋がる家系の人たちとの関係が継続しているということの説明がつかないように思えるからです。これは前に書きましたが,その中には米農家がいまして,僕の家ではそこから米を買っているのです。さらにいえば,いくら養女先で義理の兄ないしは弟としての関係があったとはいえ,他人であったとすれば,秋田を出た後も交友関係が継続するとは考えにくいように思えるからです。
祖母がいつどのような事情から秋田を出たのかは僕は知りません。養女先の人に関してはなおさらです。そもそも,僕が知る限りでは,祖母はその旦那,つまり僕の母の父で,僕の祖父,そして今はアパートの叔父夫婦とその一人娘の5人で大和市内に住んでいました。つまりそれが母の実家なのであり,僕にとって母の実家とは大和なのです。しかし母によれば,母が子どもの頃は上大岡に住んでいたとのこと。近くにある笹下の拘置所で映画の君の名はの撮影があり,それを見学に行ったことがあるという話で,要するに少なくともその頃は上大岡にいたということになります。僕は産まれていませんから,経験としてそれを知らないのは当然ですが,詳しい話を聞いたこともないのです。つまり僕にとって,祖母の人生の大半は知らないことで埋め尽くされているといえるでしょう。僕の記憶の以前のことに関しては,僅かな事柄を断片的に教えられているという程度なのです。
この日,3人が白楽に行ったというのは,もちろんそこの家を訪ねたのです。白楽というのは僕がかつて火事を目撃した六角橋の近く。僕が散歩として歩いていったなら,おそらく1時間半くらいで行かれる場所です。普通は歩いていく場所ではありませんが,自動車で行くのですから,そんなに遠出をしたというわけではありません。