昨日,シンガポールのクランジ競馬場で行われたシンガポール航空国際カップGⅠ芝2000mに,昨年のダービー卿チャレンジトロフィー,鳴尾記念,函館記念,札幌記念を勝っているトウケイヘイローが出走しました。
12頭が出走して9番ゲートから。内から2頭が前にいきましたが,発走後の長いホームストレッチを利し,1コーナーではトウケイヘイローが先頭に。バックストレッチに入る付近でリードは1馬身半~2馬身ほど。バックストレッチではそのリードがさらに広がり,一時的には4馬身~5馬身位になったのではないでしょうか。3コーナーを回ってから差が詰まり始め,直線の入口で1馬身位。それでもまだ手応えはあったように見えましたが,残り300m付近で最初に追い掛けてきた勝ち馬に差されて2番手。さらに外を2頭が併走で追い込んできて,これらにも残り100m前後で抜かれて4着でした。
刻んだラップは残り400m地点までが24秒96,23秒63,23秒61,23秒78で,最初が遅いのは加速の時間があるためと考えれば,トウケイヘイロー自身は一貫したラップで走り,差が広がったり詰まったりしたのは,ほかの馬の走り方によるもの。馬場状態が影響しますから,このラップが妥当であったかは別に,トウケイヘイローはこういう競馬をする馬ですから,自身の力は十全に出し切ったものと思います。ただ,このレベルで勝ち負けのレースをするためには,2000mという距離はやや長いかなという印象は残りました。
スピノザが永遠aeternumと持続duratioをどのように分類しているかを確認しておきます。
第一部定義八で永遠性aeternitasを定義した直後に,スピノザは以下のような説明を与えています。そして松田が最重要視しているのはこの部分です。
「このような存在は,ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ,そしてそのゆえに持続や時間によっては説明されえないからである。たとえその持続を始めも終りもないものと考えようとも」。
僕の解するところでは,この説明のうちには,スピノザの哲学にとってふたつの重要な要素が含まれています。ひとつめは,定義Definitioで永遠性を存在existentiaのことと示した上で,それを事物の本性essentiaと類比的に説明している点です。このことからスピノザは,一般に事物の本性というものは永遠であると理解していたことになります。つまりある事物が持続のうちに存在するのだとしても,その事物の本性に関しては永遠の相species aeternitatisの下に認識され得ると考えていたことになります。ただ,こちらの意味は現在の考察とは無関係です。
もうひとつは,永遠性は持続とは異なって,時間tempusという観点からは説明することができないということです。これは逆にいえば,もしもある事物が時間という観点の下に説明され得るのだとしたら,その事物は持続するdurare事物であって,永遠ではないという意味です。わざわざ最後の部分で,たとえ持続を始まりも終りもないものと考えたのだとしても,それは永遠とは異なるといっているのは,おそらくこの点を強調したかったためであると推測されます。
始まりも終りもないような持続は,第二部定義五で言及されています。そこではこのことが無限定な持続といい換えられています。無限定な持続とは,あくまでも時間の観点から説明されている事柄であり,それは永遠とは同一視することができないと理解しなければなりません。松田はとくにこの点を強調します。そしてその見解opinioには,僕としても反論する余地はいっかなありません。
僕の見解では,この永遠と持続の関係は,無限と無限定の関係に対応します。つまり無限infinitumと無限定indefinitumの間に決定的な差異があるように,永遠と持続の間にも差異があるのです。
12頭が出走して9番ゲートから。内から2頭が前にいきましたが,発走後の長いホームストレッチを利し,1コーナーではトウケイヘイローが先頭に。バックストレッチに入る付近でリードは1馬身半~2馬身ほど。バックストレッチではそのリードがさらに広がり,一時的には4馬身~5馬身位になったのではないでしょうか。3コーナーを回ってから差が詰まり始め,直線の入口で1馬身位。それでもまだ手応えはあったように見えましたが,残り300m付近で最初に追い掛けてきた勝ち馬に差されて2番手。さらに外を2頭が併走で追い込んできて,これらにも残り100m前後で抜かれて4着でした。
刻んだラップは残り400m地点までが24秒96,23秒63,23秒61,23秒78で,最初が遅いのは加速の時間があるためと考えれば,トウケイヘイロー自身は一貫したラップで走り,差が広がったり詰まったりしたのは,ほかの馬の走り方によるもの。馬場状態が影響しますから,このラップが妥当であったかは別に,トウケイヘイローはこういう競馬をする馬ですから,自身の力は十全に出し切ったものと思います。ただ,このレベルで勝ち負けのレースをするためには,2000mという距離はやや長いかなという印象は残りました。
スピノザが永遠aeternumと持続duratioをどのように分類しているかを確認しておきます。
第一部定義八で永遠性aeternitasを定義した直後に,スピノザは以下のような説明を与えています。そして松田が最重要視しているのはこの部分です。
「このような存在は,ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ,そしてそのゆえに持続や時間によっては説明されえないからである。たとえその持続を始めも終りもないものと考えようとも」。
僕の解するところでは,この説明のうちには,スピノザの哲学にとってふたつの重要な要素が含まれています。ひとつめは,定義Definitioで永遠性を存在existentiaのことと示した上で,それを事物の本性essentiaと類比的に説明している点です。このことからスピノザは,一般に事物の本性というものは永遠であると理解していたことになります。つまりある事物が持続のうちに存在するのだとしても,その事物の本性に関しては永遠の相species aeternitatisの下に認識され得ると考えていたことになります。ただ,こちらの意味は現在の考察とは無関係です。
もうひとつは,永遠性は持続とは異なって,時間tempusという観点からは説明することができないということです。これは逆にいえば,もしもある事物が時間という観点の下に説明され得るのだとしたら,その事物は持続するdurare事物であって,永遠ではないという意味です。わざわざ最後の部分で,たとえ持続を始まりも終りもないものと考えたのだとしても,それは永遠とは異なるといっているのは,おそらくこの点を強調したかったためであると推測されます。
始まりも終りもないような持続は,第二部定義五で言及されています。そこではこのことが無限定な持続といい換えられています。無限定な持続とは,あくまでも時間の観点から説明されている事柄であり,それは永遠とは同一視することができないと理解しなければなりません。松田はとくにこの点を強調します。そしてその見解opinioには,僕としても反論する余地はいっかなありません。
僕の見解では,この永遠と持続の関係は,無限と無限定の関係に対応します。つまり無限infinitumと無限定indefinitumの間に決定的な差異があるように,永遠と持続の間にも差異があるのです。