旧伊藤伝右衛門邸で指された第25期女流王位戦五番勝負第三局。
甲斐智美女流王位の先手で中飛車。先手が5筋の歩を交換したところで後手の清水市代女流六段が動き,先手がそれを咎めにいこうとしたため駒損の猛攻。うまくやったようなのですが,そのまま決めるまでには至らず,先手にも反撃の手順が回り,攻め合いになりました。
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先手が桂馬を打ったところで,もうすでに先手がよくなっているかもしれません。△4二銀と逃げる手が考えられるところですが,△2九飛成で攻め合いを選択。この飛車成りもある手だと思えます。当然▲5三桂成。以下は△2七飛成▲3七金。
ここで△5五桂と打って▲4八王に△2八龍~△1九龍で香車を取る手順もありそう。実戦は先に△2九角と打ち,▲3八銀に△5五桂。ただこれは▲4八王と逃げられたとき△3八角成と取るよりなく,▲同金上に△2九龍で後手を引くことになりました。
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第2図となっては激戦も終焉近し。▲6二飛成以下,先手が勝ちました。
甲斐女流王位が2勝目。第四局は来月4日です。
松田の結論は,松田自身も気付いている,ある難点を含んでいます。ただこの難点について説明するためには,まだ保留している,作出原因の意味を確定させなければなりません。
作出原因が,僕が起成原因と訳しているcausa efficiensの訳であるということは,松田自身も認めています。ただ,だから僕がいう起成原因と松田がいう作出原因の意味が完全に一致していることにはならないのが,ややこしい点です。僕はあくまでもスピノザの哲学に則して起成原因を概念として理解しますが,松田がcausa efficiensを起成原因とは訳さず,作出原因と訳す理由のひとつに,causa efficiensをデカルトの哲学で用いられている意味で使用するというものが含まれているのです。デカルトの概念とスピノザの概念が一致するなら何も問題は生じません。でも僕にはそのように理解するのは,危険性を伴うように思えるのです。
デカルトがcausa efficiensということばを用いるとき,そこには産出の原因という意味が含まれているというのが,松田がcausa efficiensを作出原因と訳す最大の理由です。そしてcausa efficiensに産出の原因という意味が含まれているという点については,松田は別の個所を示していますが,たとえば第一部定理二四の意味などからしても,スピノザの哲学にも妥当すると僕は考えます。
しかし僕の理解では,産出の原因という意味を含む概念というのは,スピノザの哲学ではcausa efficiensだけではありません。自己原因にもそれは含まれるのです。そして同じように産出の原因という意味を含む,自己原因とcausa efficiensが,概念として明確に区別される,つまり自己原因は第一部定義一に示される産出を意味し,causa efficiensは第一部定理一七備考で示される産出を意味するというのが,スピノザの哲学において肝要な部分のひとつだと僕は考えます。そしてこの点において,デカルトとスピノザのcausa efficiensという概念は,完全には重なり合わない可能性があると僕は思います。
甲斐智美女流王位の先手で中飛車。先手が5筋の歩を交換したところで後手の清水市代女流六段が動き,先手がそれを咎めにいこうとしたため駒損の猛攻。うまくやったようなのですが,そのまま決めるまでには至らず,先手にも反撃の手順が回り,攻め合いになりました。
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先手が桂馬を打ったところで,もうすでに先手がよくなっているかもしれません。△4二銀と逃げる手が考えられるところですが,△2九飛成で攻め合いを選択。この飛車成りもある手だと思えます。当然▲5三桂成。以下は△2七飛成▲3七金。
ここで△5五桂と打って▲4八王に△2八龍~△1九龍で香車を取る手順もありそう。実戦は先に△2九角と打ち,▲3八銀に△5五桂。ただこれは▲4八王と逃げられたとき△3八角成と取るよりなく,▲同金上に△2九龍で後手を引くことになりました。
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第2図となっては激戦も終焉近し。▲6二飛成以下,先手が勝ちました。
甲斐女流王位が2勝目。第四局は来月4日です。
松田の結論は,松田自身も気付いている,ある難点を含んでいます。ただこの難点について説明するためには,まだ保留している,作出原因の意味を確定させなければなりません。
作出原因が,僕が起成原因と訳しているcausa efficiensの訳であるということは,松田自身も認めています。ただ,だから僕がいう起成原因と松田がいう作出原因の意味が完全に一致していることにはならないのが,ややこしい点です。僕はあくまでもスピノザの哲学に則して起成原因を概念として理解しますが,松田がcausa efficiensを起成原因とは訳さず,作出原因と訳す理由のひとつに,causa efficiensをデカルトの哲学で用いられている意味で使用するというものが含まれているのです。デカルトの概念とスピノザの概念が一致するなら何も問題は生じません。でも僕にはそのように理解するのは,危険性を伴うように思えるのです。
デカルトがcausa efficiensということばを用いるとき,そこには産出の原因という意味が含まれているというのが,松田がcausa efficiensを作出原因と訳す最大の理由です。そしてcausa efficiensに産出の原因という意味が含まれているという点については,松田は別の個所を示していますが,たとえば第一部定理二四の意味などからしても,スピノザの哲学にも妥当すると僕は考えます。
しかし僕の理解では,産出の原因という意味を含む概念というのは,スピノザの哲学ではcausa efficiensだけではありません。自己原因にもそれは含まれるのです。そして同じように産出の原因という意味を含む,自己原因とcausa efficiensが,概念として明確に区別される,つまり自己原因は第一部定義一に示される産出を意味し,causa efficiensは第一部定理一七備考で示される産出を意味するというのが,スピノザの哲学において肝要な部分のひとつだと僕は考えます。そしてこの点において,デカルトとスピノザのcausa efficiensという概念は,完全には重なり合わない可能性があると僕は思います。