ヨハン・デ・ウィットが好戦的な反動的勢力に扇動された民衆によって虐殺されたことを知ったスピノザが,抗議の紙を貼りに行こうとして大家に止められたというエピソードは,スピノザとデ・ウィットの関係についてエントリーしたときの冒頭に示したように,『ある哲学者の人生』では,スピノザがライプニッツに話した内容であるとされています。
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ライプニッツは1646年産まれ。スピノザがアムステルダムで産声をあげたのが1632年ですから,14という年の差がありました。スピノザが匿名で『神学・政治論』を刊行したのが1670年。この翌年,1671年にライプニッツはスピノザに手紙を書いています。これがライプニッツからスピノザに出された最初の手紙であったようです。
スピノザと親しくしていた人物のひとりに,ドイツ人数学者のチルンハウスがいました。無限様態とは具体的に何であるのかを問う手紙をスピノザに書いているくらいで,スピノザの生存中には刊行されなかった『エチカ』の草稿の内容までよく知っていたくらい,スピノザとは親しかった人物です。ライプニッツは1675年にこのチルンハウスと知り合いました。スピノザはチルンハウスに対して,ライプニッツに『エチカ』の草稿は見せないようにと忠告したようですが,どうもチルンハウスはその忠告を守らず,ライプニッツにそれを見せたようです。したがってライプニッツは,『エチカ』の内容について,かなりの程度まで知っていたと推測できます。スピノザの哲学に対するライプニッツの疑問は,テーマとして取り上げましたし,また別の角度から取り上げますが,ライプニッツがこういう具体的な疑問をもてたのは,チルンハウスのおかげであったといえるでしょう。
1676年に,ライプニッツはパリを去り,ロンドンからアムステルダムを経由して,当時はハーグに住んでいたスピノザを訪ねました。11月18日前後のことだったようです。ナドラーは,ふたりは数週間にわたって何度か顔を合わせたと書いています。
松田がcausa efficiensを作出原因と訳す理由は,それをデカルトの概念から理解し,産出の原因という意味を浮き彫りにさせるためです。松田が自己原因をcausa efficiensの一種であると理解していることが確実であるとは僕にはいえないのですが,訳の理由をこのように述べている以上,ルールとして設定した作出原因と起成原因のうち,松田がいう作出原因は作出原因の方に該当するとしておきます。
すると松田の結論は次のように読み替えられることになります。Z,A,Bの因果性は,一義的に作出原因を示します。このうちBは,第二部定理八で導入された属性の中の持続の相に属します。一方,ZとAは,属性の外部,つまり持続の相の外部の永遠の相に属します。そしてZとAは,相即不離です。したがってZおよびAとBは,数的に区別される二種類の因果性でなければならず,ZとAは数的には区別できないことになります。
この結論が含む大きな難点というのは,これで『エチカ』に示されているすべての因果性が説明されているわけではないという点にあります。実在的にいえば,Zは神が自己原因であるという因果性で,これは第一部定義六ないしは第一部定理一一に示されます。Aは神の本性を構成する属性が自己原因であるという因果性で,これは第一部定理一〇です。そしてBは個物res singularisが時間の経過のうちに別のres singularisを起成するという因果性で,第一部定理二八です。しかし『エチカ』にはまだほかにも因果性が示されています。それが第一部定理二一と二二に示されている因果性,すなわち神の属性が無限様態を起成するという因果性です。
この因果性が存在するということ,そしてもちろんそこには産出の原因という意味が明確に含まれているということは松田も認めています。そこでこの因果性を,松田は示していませんが,仮に因果性Xと規定してみましょう。Xは永遠の相と持続の相の,どちらに属する因果性でしょうか。いい換えればXはZおよびAと同一でしょうか,それともBと同一なのでしょうか。
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ライプニッツは1646年産まれ。スピノザがアムステルダムで産声をあげたのが1632年ですから,14という年の差がありました。スピノザが匿名で『神学・政治論』を刊行したのが1670年。この翌年,1671年にライプニッツはスピノザに手紙を書いています。これがライプニッツからスピノザに出された最初の手紙であったようです。
スピノザと親しくしていた人物のひとりに,ドイツ人数学者のチルンハウスがいました。無限様態とは具体的に何であるのかを問う手紙をスピノザに書いているくらいで,スピノザの生存中には刊行されなかった『エチカ』の草稿の内容までよく知っていたくらい,スピノザとは親しかった人物です。ライプニッツは1675年にこのチルンハウスと知り合いました。スピノザはチルンハウスに対して,ライプニッツに『エチカ』の草稿は見せないようにと忠告したようですが,どうもチルンハウスはその忠告を守らず,ライプニッツにそれを見せたようです。したがってライプニッツは,『エチカ』の内容について,かなりの程度まで知っていたと推測できます。スピノザの哲学に対するライプニッツの疑問は,テーマとして取り上げましたし,また別の角度から取り上げますが,ライプニッツがこういう具体的な疑問をもてたのは,チルンハウスのおかげであったといえるでしょう。
1676年に,ライプニッツはパリを去り,ロンドンからアムステルダムを経由して,当時はハーグに住んでいたスピノザを訪ねました。11月18日前後のことだったようです。ナドラーは,ふたりは数週間にわたって何度か顔を合わせたと書いています。
松田がcausa efficiensを作出原因と訳す理由は,それをデカルトの概念から理解し,産出の原因という意味を浮き彫りにさせるためです。松田が自己原因をcausa efficiensの一種であると理解していることが確実であるとは僕にはいえないのですが,訳の理由をこのように述べている以上,ルールとして設定した作出原因と起成原因のうち,松田がいう作出原因は作出原因の方に該当するとしておきます。
すると松田の結論は次のように読み替えられることになります。Z,A,Bの因果性は,一義的に作出原因を示します。このうちBは,第二部定理八で導入された属性の中の持続の相に属します。一方,ZとAは,属性の外部,つまり持続の相の外部の永遠の相に属します。そしてZとAは,相即不離です。したがってZおよびAとBは,数的に区別される二種類の因果性でなければならず,ZとAは数的には区別できないことになります。
この結論が含む大きな難点というのは,これで『エチカ』に示されているすべての因果性が説明されているわけではないという点にあります。実在的にいえば,Zは神が自己原因であるという因果性で,これは第一部定義六ないしは第一部定理一一に示されます。Aは神の本性を構成する属性が自己原因であるという因果性で,これは第一部定理一〇です。そしてBは個物res singularisが時間の経過のうちに別のres singularisを起成するという因果性で,第一部定理二八です。しかし『エチカ』にはまだほかにも因果性が示されています。それが第一部定理二一と二二に示されている因果性,すなわち神の属性が無限様態を起成するという因果性です。
この因果性が存在するということ,そしてもちろんそこには産出の原因という意味が明確に含まれているということは松田も認めています。そこでこの因果性を,松田は示していませんが,仮に因果性Xと規定してみましょう。Xは永遠の相と持続の相の,どちらに属する因果性でしょうか。いい換えればXはZおよびAと同一でしょうか,それともBと同一なのでしょうか。