川崎競輪場で行われた昨日の花月園メモリアルin川崎の決勝。並びは早坂-兵藤の東日本に原,松谷-松坂-大塚の神奈川,中村-三谷-有賀の近畿中部。
早坂が飛び出してそのまま前受け。4番手に中村,7番手に松谷で周回。松谷の上昇は残り2周ホーム入口付近から。中途で止まらずにバックで早坂を叩いて前に。そのままスピードを上げて打鐘。これを叩きにいったのが中村。ホームで叩くことには成功しましたが,有賀がつけきれず,3番手に松谷。後方から早坂が発進も大塚の横で一杯。バックから松谷が捲ると粘る中村を直線入口で捕えて先頭。これをマークの松坂が差し切って優勝。松谷が半車身差で2着。さらに半車身差の3着にも外を回った大塚が入り,地元勢で上位独占。なお,直線で三谷と接触した兵藤が落車しています。
優勝した神奈川の松坂英司選手はこれがGⅢ初優勝。自力3人では松谷の力量が最上位と思われ,絡まれることも考えにくいメンバー構成でしたので,ここはチャンス。それをうまくものにしたといったところ。有賀が離れたために松谷が3番手に入れたのも,展開面で大きく幸いしました。優勝をどんどん重ねていくというのは難しいように思いますが,恵まれれば勝てる力量があるということは確かであると思います。花月園メモリアルは当初の予定では5回で,その通りだと今回が最後。思い出に残る優勝になったものと思います。
第二部定理八系の意味から分かるように,個物res singularisはどんな場合であれ,永遠の相の下には必然的に存在します。したがって,あるres singularisが現実的に存在しているときに,何らかの知性がこのres singularisを観念対象ideatumとして認識した場合に,この認識のうちに永遠性を発見することが可能であるということになります。つまり持続するということをその本性のうちに含むものの認識のうちに,ある永遠性が含まれる論理的可能性が,ここでも保証されているということになるでしょう。
こうしたことは,論理的に可能であるというだけでなく,現実的にも可能です。いい換えれば,僕がずっと射程に入れてきた,現実的に存在する人間の知性にとっても,現実的に存在するres singularisの認識のうちに,永遠性を発見することが可能です。なぜそんなことが可能であるのかを示しているのが,第二部定理四五です。
「現実に存在するおのおのの物体ないし個物の観念はすべて神の永遠・無限なる本質を必然的に含んでいる」。
僕はここまで,現実的に存在するres singularisのうちに永遠性が含まれるということを,帰納的に示してきました。この定理の証明では,それが演繹的に示されることになります。
第二部定理六は,res singularisはそれが様態となっている属性において神を原因とすることを示しています。したがって第一部公理四により,res singularisの認識はその属性の認識を含んでいることになります。そして第一部定義六により,神の本性を構成する属性は,どれも無限で永遠の本性を表現します。つまりres singularisの認識のうちに,無限で永遠なる本性の認識が含まれているということになるのです。
僕はここでも,スピノザが単に永遠性だけでなく,無限性についても言及していることに注目します。持続するものの認識のうちに永遠性の認識が含まれるということをこの定理は意味しますが,同時に,有限であるものの認識のうちに無限性の認識が含まれるということも意味されています。
早坂が飛び出してそのまま前受け。4番手に中村,7番手に松谷で周回。松谷の上昇は残り2周ホーム入口付近から。中途で止まらずにバックで早坂を叩いて前に。そのままスピードを上げて打鐘。これを叩きにいったのが中村。ホームで叩くことには成功しましたが,有賀がつけきれず,3番手に松谷。後方から早坂が発進も大塚の横で一杯。バックから松谷が捲ると粘る中村を直線入口で捕えて先頭。これをマークの松坂が差し切って優勝。松谷が半車身差で2着。さらに半車身差の3着にも外を回った大塚が入り,地元勢で上位独占。なお,直線で三谷と接触した兵藤が落車しています。
優勝した神奈川の松坂英司選手はこれがGⅢ初優勝。自力3人では松谷の力量が最上位と思われ,絡まれることも考えにくいメンバー構成でしたので,ここはチャンス。それをうまくものにしたといったところ。有賀が離れたために松谷が3番手に入れたのも,展開面で大きく幸いしました。優勝をどんどん重ねていくというのは難しいように思いますが,恵まれれば勝てる力量があるということは確かであると思います。花月園メモリアルは当初の予定では5回で,その通りだと今回が最後。思い出に残る優勝になったものと思います。
第二部定理八系の意味から分かるように,個物res singularisはどんな場合であれ,永遠の相の下には必然的に存在します。したがって,あるres singularisが現実的に存在しているときに,何らかの知性がこのres singularisを観念対象ideatumとして認識した場合に,この認識のうちに永遠性を発見することが可能であるということになります。つまり持続するということをその本性のうちに含むものの認識のうちに,ある永遠性が含まれる論理的可能性が,ここでも保証されているということになるでしょう。
こうしたことは,論理的に可能であるというだけでなく,現実的にも可能です。いい換えれば,僕がずっと射程に入れてきた,現実的に存在する人間の知性にとっても,現実的に存在するres singularisの認識のうちに,永遠性を発見することが可能です。なぜそんなことが可能であるのかを示しているのが,第二部定理四五です。
「現実に存在するおのおのの物体ないし個物の観念はすべて神の永遠・無限なる本質を必然的に含んでいる」。
僕はここまで,現実的に存在するres singularisのうちに永遠性が含まれるということを,帰納的に示してきました。この定理の証明では,それが演繹的に示されることになります。
第二部定理六は,res singularisはそれが様態となっている属性において神を原因とすることを示しています。したがって第一部公理四により,res singularisの認識はその属性の認識を含んでいることになります。そして第一部定義六により,神の本性を構成する属性は,どれも無限で永遠の本性を表現します。つまりres singularisの認識のうちに,無限で永遠なる本性の認識が含まれているということになるのです。
僕はここでも,スピノザが単に永遠性だけでなく,無限性についても言及していることに注目します。持続するものの認識のうちに永遠性の認識が含まれるということをこの定理は意味しますが,同時に,有限であるものの認識のうちに無限性の認識が含まれるということも意味されています。