『スピノザ 実践の哲学』の第六章のタイトルは「スピノザと私たち」です。これと同じ題名の本があります。アントニオ・ネグリの『スピノザとわたしたち』です。ネグリは何度かドゥルーズに言及し,評価しています。意図的につけられたタイトルという可能性もあると思います。
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ネグリの関心はほとんどが政治です。ですから僕のようにスピノザの哲学に関心の中心がある場合,得るところはあまり多くないと思います。ただスピノザ自身の政治論は,哲学的基礎の上に成立することは間違いありません。
僕の理解するネグリの政治論の基本図は,現実的に人びとの紐帯となっているものは受動的感情で,政治的抑圧はそのために生じるから,能動的感情,とりわけ愛の感情によって人びとが連帯するようになれば,政治的抑圧およびその抑圧を産出し,再生産する政治的権力は消滅に至るというものです。
僕はこのネグリの政治論は,論理的には正しいし,現実的に政治というものがどういった力によって行われるのかという把握に関しても正しいと思います。有能な政治家とは,人民を,不安metusとか憎しみといった,悲しみの一種であるがゆえに,受動でしかあり得ない感情affectusによって結び付ける術に長けた人間だといって差し支えないくらいです。ヨハン・デ・ウィットJan de Wittはそれで殺されたのだし,僕たちが現在進行形で経験していることでもあります。ただネグリの論理は,政治的な実践という点では,やや安易に思えます。
『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』もそうですが,とりわけ『国家論Tractatus Politicus』から顕著に窺えるのは,スピノザは人間が能動的なものによって連帯するということ,わけても政治的紐帯を結ぶということに関しては,悲観的であったということです。たとえば『エチカ』でもスピノザは,人間は親切に報いるより復讐に傾いていると述べていますが,そうした人間の本性の理解の上に,スピノザの政治論は構成されなければなりません。
スピノザの哲学を遵守するなら,政治的実践の方法は,ネグリが示すのとは異なったものになるのではないかと僕は思います。
同一個体の何たるかを詳細に分析していきます。まず第二部定理二〇から始めることにしましょう。
「人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。そしてこの観念あるいは認識は,人間身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ,また同様の仕方で神に帰せられる」。
最初の文章が示しているのは,神の無限な観念のうちに,ある人間の精神の観念があるということです。ある人間の精神とは,第二部定理一三により,その人間の身体の観念のことです。つまりこの定理が最初に示しているのは,神のうちには,人間の身体の観念の観念があるということです。そしてこの定理が示しているのはこれだけですが,これは一般化できると考えて間違いありません。つまりAという物体が存在するならば,Aの観念の観念が神のうちにあるという意味を,ここから引き出して問題は発生しません。
次の文章は,人間の精神の観念が,いかなる仕方で神と関連付けられるのかということについての言及です。第二部定理一一は,人間の精神が,ある個物res singularisの観念であると述べています。この種の観念は,無限である限りにおいて神のうちにあるのではありません。第二部定理九により,ほかのres singularisの観念に変状した限りで神のうちにあるのです。つまりある人間の精神の観念,同じことですがある人間の身体の観念の観念の観念対象ideatumは,思惟の属性のres singularisであることになります。第二部定理七は,ある観念とその観念のideatumは,原因と結果の連結と秩序が同一であることを示します。当然ながらこのことは,ideatumがどんな属性の様態であろうとも妥当しなければなりません。したがって,res singularisの観念とそのres singularisの観念の観念は,原因と結果の連結と秩序が同一であることになります。なのでres singularisの観念の観念も,神がほかのres singularisの観念,あるいはres singularisの観念の観念に変状した限りで神のうちにあるという仕方で,神と関連付けられなければならないのです。
ここですでに,観念とその観念の観念は,平行論における同一個体であるということが,匂わされているといえるでしょう。
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ネグリの関心はほとんどが政治です。ですから僕のようにスピノザの哲学に関心の中心がある場合,得るところはあまり多くないと思います。ただスピノザ自身の政治論は,哲学的基礎の上に成立することは間違いありません。
僕の理解するネグリの政治論の基本図は,現実的に人びとの紐帯となっているものは受動的感情で,政治的抑圧はそのために生じるから,能動的感情,とりわけ愛の感情によって人びとが連帯するようになれば,政治的抑圧およびその抑圧を産出し,再生産する政治的権力は消滅に至るというものです。
僕はこのネグリの政治論は,論理的には正しいし,現実的に政治というものがどういった力によって行われるのかという把握に関しても正しいと思います。有能な政治家とは,人民を,不安metusとか憎しみといった,悲しみの一種であるがゆえに,受動でしかあり得ない感情affectusによって結び付ける術に長けた人間だといって差し支えないくらいです。ヨハン・デ・ウィットJan de Wittはそれで殺されたのだし,僕たちが現在進行形で経験していることでもあります。ただネグリの論理は,政治的な実践という点では,やや安易に思えます。
『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』もそうですが,とりわけ『国家論Tractatus Politicus』から顕著に窺えるのは,スピノザは人間が能動的なものによって連帯するということ,わけても政治的紐帯を結ぶということに関しては,悲観的であったということです。たとえば『エチカ』でもスピノザは,人間は親切に報いるより復讐に傾いていると述べていますが,そうした人間の本性の理解の上に,スピノザの政治論は構成されなければなりません。
スピノザの哲学を遵守するなら,政治的実践の方法は,ネグリが示すのとは異なったものになるのではないかと僕は思います。
同一個体の何たるかを詳細に分析していきます。まず第二部定理二〇から始めることにしましょう。
「人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。そしてこの観念あるいは認識は,人間身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ,また同様の仕方で神に帰せられる」。
最初の文章が示しているのは,神の無限な観念のうちに,ある人間の精神の観念があるということです。ある人間の精神とは,第二部定理一三により,その人間の身体の観念のことです。つまりこの定理が最初に示しているのは,神のうちには,人間の身体の観念の観念があるということです。そしてこの定理が示しているのはこれだけですが,これは一般化できると考えて間違いありません。つまりAという物体が存在するならば,Aの観念の観念が神のうちにあるという意味を,ここから引き出して問題は発生しません。
次の文章は,人間の精神の観念が,いかなる仕方で神と関連付けられるのかということについての言及です。第二部定理一一は,人間の精神が,ある個物res singularisの観念であると述べています。この種の観念は,無限である限りにおいて神のうちにあるのではありません。第二部定理九により,ほかのres singularisの観念に変状した限りで神のうちにあるのです。つまりある人間の精神の観念,同じことですがある人間の身体の観念の観念の観念対象ideatumは,思惟の属性のres singularisであることになります。第二部定理七は,ある観念とその観念のideatumは,原因と結果の連結と秩序が同一であることを示します。当然ながらこのことは,ideatumがどんな属性の様態であろうとも妥当しなければなりません。したがって,res singularisの観念とそのres singularisの観念の観念は,原因と結果の連結と秩序が同一であることになります。なのでres singularisの観念の観念も,神がほかのres singularisの観念,あるいはres singularisの観念の観念に変状した限りで神のうちにあるという仕方で,神と関連付けられなければならないのです。
ここですでに,観念とその観念の観念は,平行論における同一個体であるということが,匂わされているといえるでしょう。