⑧-1の第2図からは駒組が進み,第1図へと進展しました。
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これに似た局面は⑦にも現れ,その将棋は先手の角が7七から5九へ,左の銀は8八から7七に上がっています。後手は同じような展開を考えていたとのこと。仕掛けられたあたりはまずかったと思われますので,何らかの修正手順は用意されていたものと推測します。
この将棋は▲6八銀と上がり,△8五歩に▲7七角。飛車先交換を自分だけがするというのは先手の主張のひとつ。なので受けるのは当然ですが,この受け方は,現状の角の利きを通したまま戦うという意図でしょう。以下△3三角▲3六歩△2二銀▲3七桂△3一王に▲5六銀と腰掛銀にして,△7四歩に▲4八飛と右四間飛車を選択しました。
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第2図と進んで作戦負けと後手の自戦記にあります。銀冠にするには手数が掛かりすぎるけれども,現状は壁銀で強く受けることが不可能というのがその理由。銀冠に組もうとしたのが欲張りだったと述べていますが,第2図までにほかの変化がないと,2手目の△6二銀は指せないとされています。
羽生名人の2手目△6二銀は僕が知る限りではこれが最後。たぶん思わしい変化を発見できなかったということなのでしょう。
ここまでの考察からいえることは,同一個体とは,観念と観念対象ideatumのことであり,それ以外の何ものでもないということです。そしてここには軽視することが禁物である内容が含まれています。ひとつは,この関係のほかには,同一個体を構成するいかなる関係も存在しないということです。そしてもうひとつは,もしも観念が必然的にideatumを有するようなものであるということが証明できるなら,その観念には必ず同一個体が存在するということです。
論証はさほど難しくありません。第一部公理六は,真の観念には必ずideatumがあることを前提します。公理とはそれ自体で知られ得ることです。もしもideatumを有さない真の観念があるなら,真の観念がideatumと一致するということは,それ自体で知られようがないからです。したがって少なくともすべての真の観念にはideatumがあります。
第二部定理三二は,どんな観念も,何らかの仕方で神と関連付けられれば,真の観念であることを意味します。この場合,観念はideatumを有します。もしもideatumのない観念があり得るなら,それは神と関連付けることが不可能な観念です。しかしそうした観念は,第一部定理一五から存在し得ません。ゆえにすべての観念はideatumを有します。すべての観念には同一個体が存在するのです。
第二部定理七系は,思惟属性以外のあらゆる様態がideatumになるということを意味します。観念とそのideatumが同一個体なのですから,ideatumになり得るものには必ず同一個体があります。したがって,思惟の属性以外のあらゆる様態は,思惟属性のうちにその同一個体を有することになります。
一方,第二部定理二一備考により,思惟の様態はそれ自体がideatumになり得ます。よって観念は,そのideatumと同一個体であると同時に,自身がideatumとなった場合の同一個体も有します。つまり,思惟以外の様態には必ずひとつの同一個体があり,思惟の様態,とりわけ第二部公理三によりその第一のものである観念には,必ずふたつの同一個体があるということになります。その理由は,ふたつの平行論,すなわち思惟属性とそれ以外の属性の間の平行論と,思惟属性内の平行論とがあるからです。ここからも,これらの平行論を数的に区別する合理性が理解できます。
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これに似た局面は⑦にも現れ,その将棋は先手の角が7七から5九へ,左の銀は8八から7七に上がっています。後手は同じような展開を考えていたとのこと。仕掛けられたあたりはまずかったと思われますので,何らかの修正手順は用意されていたものと推測します。
この将棋は▲6八銀と上がり,△8五歩に▲7七角。飛車先交換を自分だけがするというのは先手の主張のひとつ。なので受けるのは当然ですが,この受け方は,現状の角の利きを通したまま戦うという意図でしょう。以下△3三角▲3六歩△2二銀▲3七桂△3一王に▲5六銀と腰掛銀にして,△7四歩に▲4八飛と右四間飛車を選択しました。
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第2図と進んで作戦負けと後手の自戦記にあります。銀冠にするには手数が掛かりすぎるけれども,現状は壁銀で強く受けることが不可能というのがその理由。銀冠に組もうとしたのが欲張りだったと述べていますが,第2図までにほかの変化がないと,2手目の△6二銀は指せないとされています。
羽生名人の2手目△6二銀は僕が知る限りではこれが最後。たぶん思わしい変化を発見できなかったということなのでしょう。
ここまでの考察からいえることは,同一個体とは,観念と観念対象ideatumのことであり,それ以外の何ものでもないということです。そしてここには軽視することが禁物である内容が含まれています。ひとつは,この関係のほかには,同一個体を構成するいかなる関係も存在しないということです。そしてもうひとつは,もしも観念が必然的にideatumを有するようなものであるということが証明できるなら,その観念には必ず同一個体が存在するということです。
論証はさほど難しくありません。第一部公理六は,真の観念には必ずideatumがあることを前提します。公理とはそれ自体で知られ得ることです。もしもideatumを有さない真の観念があるなら,真の観念がideatumと一致するということは,それ自体で知られようがないからです。したがって少なくともすべての真の観念にはideatumがあります。
第二部定理三二は,どんな観念も,何らかの仕方で神と関連付けられれば,真の観念であることを意味します。この場合,観念はideatumを有します。もしもideatumのない観念があり得るなら,それは神と関連付けることが不可能な観念です。しかしそうした観念は,第一部定理一五から存在し得ません。ゆえにすべての観念はideatumを有します。すべての観念には同一個体が存在するのです。
第二部定理七系は,思惟属性以外のあらゆる様態がideatumになるということを意味します。観念とそのideatumが同一個体なのですから,ideatumになり得るものには必ず同一個体があります。したがって,思惟の属性以外のあらゆる様態は,思惟属性のうちにその同一個体を有することになります。
一方,第二部定理二一備考により,思惟の様態はそれ自体がideatumになり得ます。よって観念は,そのideatumと同一個体であると同時に,自身がideatumとなった場合の同一個体も有します。つまり,思惟以外の様態には必ずひとつの同一個体があり,思惟の様態,とりわけ第二部公理三によりその第一のものである観念には,必ずふたつの同一個体があるということになります。その理由は,ふたつの平行論,すなわち思惟属性とそれ以外の属性の間の平行論と,思惟属性内の平行論とがあるからです。ここからも,これらの平行論を数的に区別する合理性が理解できます。