スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&最重要課題

2014-08-21 19:31:54 | 将棋
 博多で対局があった第55期王位戦七番勝負第四局。
 木村一基八段の先手で相矢倉。新手を出した後手の羽生善治王位から攻める将棋になりました。
                         
 △6六歩の叩きに歩を取りつつ金をかわした局面。△4六角と切りました。
 金で取ると5七、飛車で取ると6七に銀を打つ手があります。▲同金と取っていますので、実戦の△5七銀の方がよいと先手は判断したのでしょう。以下▲4七飛△4六銀成▲同飛は一直線。そこで△5四桂と歩を支えつつ飛車取りに打ちました。
 △5四桂は第1図でも打つことが可能な手です。つまり後手は同じ打つならこの局面で打った方が効果的と考えていたと推測できます。
 飛車取りですから逃げる一手ですが、▲4七飛とひとつ引きました。すぐに△6七金と打たれる手を嫌ったからだと思います。後手は△5六金とまた飛車取りに打ち、▲2七飛に△5七歩と打ちました。
                         
 ここまで進むと後手からは確実な攻めが約束されています。部分的には手順に2筋に飛車を回った先手から、それ以上に早い攻めがあるのかがこの後の焦点。結果的には一手だけ追いつけず、後手の勝ちになっています。
 羽生王位が2勝目をあげ、ひとつリード。第五局は来週の水曜と木曜です。

 第二部定理八系では,個物res singularisが神の属性に包容されてのみ存在するとき,そのres singularisの観念は,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれています。いい換えれば,無限知性に関連付けられる限りにおいて,そのres singularisの観念は神の中で十全であるということになります。つまり思惟属性の間接無限様態の十全性の神への関連付けられ方と同じです。ここからも,間接無限様態をres singularisとみなしたり,逆に別の論証で僕がしたように,res singularisを間接無限様態とみなしたりすることの妥当性を帰結させることができます。
 一方,res singularisが現実的に存在するようになると,この関連付け方でそのres singularisの十全性を確保することができなくなります。正確にいえば,現実的にres singularisの観念が存在するとみられる場合,あるいは同じことですが,持続すると説明されるべきres singularisの観念は,神の無限な観念がある限りにおいて神のうちに存在するのではありません。
 第二部定理一一第二部定理一一系からして,現実的に存在するres singularisの観念が,神の無限知性の一部であるということは疑い得ないと僕は考えます。しかしその一部である観念が,全体とみなされるような無限知性と関連付けられる場合には,神のうちで十全であるとはいえないのです。これは大きな矛盾に思われるかもしれませんが,少しもそんなことはありません。これは,かつて僕が自転車とタイヤというイメージを用いて説明したのと同じ事柄,あるいはそっくり同じではなくてもそれと似たような事柄が,無限知性と現実的に存在するres singularisの観念との間にも生じていると解することができるからです。この状況を詳しく調べておくことが,関連事項の中で,僕にとっての最重要課題です。というのはこのことが,思惟属性の三様態をどう把握するべきなのかということと,とても密接に関係してくるからです。
コメント
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