デカルトには,創世記との関連で,超えてはならないと自覚していた一線があったように思えます。同様にドストエフスキーの転向も,死刑を免れたドストエフスキーにとって,作家として生きていくために,踏みとどまっていることを対外的に示すための一線であったのかもしれません。
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一線ということばは,ロシア語ではある特別の意味をもっているのだそうです。そしてそのことばは,『罪と罰』では,特別の使われ方をされているそうです。何冊かの本で読みましたが,ここでは謎ときシリーズの『謎とき『罪と罰』』の説明を使用します。
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『罪と罰』の罪は,ロシア語でプレストゥプレーニエです。この語源は,プレストゥピーチという動詞。この動詞は古い語形で,現代ではペレストゥピーチと発音されるようです。この動詞は,またぐとか,踏み越すといった意味。つまり一線を超えるという場合にも使用可能な動詞だそうです。
第一部の1,小説のほぼ冒頭,ラスコーリニコフは後の殺人のための下見に,老婆の家を訪れます。このとき,敷居をまたいで暗い控室に入った,と新潮文庫版には書かれています。ここでのまたぐという動詞が,ペレトゥピーチ。つまりここにすでに,ラスコーリニコフが一線を超えること,罪を犯すことが暗示されているといえるようです。
キリスト教との関連で,ラスコーリニコフの場合を紹介したとき,ソーニャはラザロの復活を音読しました。これは第四部の4。朗読を終えたソーニャとラスコーリニコフは話をします。その中に、きみだって踏みこえた……踏みこえることができたんだ、というラスコーリニコフのことばがあります。
ここで踏み越えるということばをラスコーリニコフが使用したのは、自分が殺人という罪を犯した人間であるのと同様の意味で、ソーニャも罪を犯した人間であると考えていたからだといえそうです。ラスコーリニコフが罪の告白の相手としてソーニャを選択した理由のひとつだともいえるでしょう。ラスコーリニコフとソーニャは、ラスコーリニコフからみて、同じ種類の人間であったのです。
現実的に存在する個物res singularisの観念は、どのように関連付けられれば、神のうちで十全であるといえるのでしょうか。その答えは第二部定理九にあります。現実的に存在するほかのres singularisの観念に変状した神、あるいは思惟の属性と関連付けられる限りで、この観念は真であり十全なのです。つまり現実的に存在するres singularisの観念は、その観念を存在と作用に決定する別のres singularisの観念を有する限りで神のうちにある、神のうちで十全であることになります。
なぜそのように関連付けられなければならないかは、スピノザがこの定理を論証している通りです。しかし、定理の配置というのを無視して考えるならば、この理由は、もっと別の仕方で説明することが可能であると僕は考えています。それは第一部定理二二、とりわけそこで間接無限様態が永遠であるといわれていることを根拠にする方法です。
思惟属性の間接無限様態は永遠です。僕はスピノザの哲学には永遠の一義性が成立するという考えですから、それは思惟の属性が永遠であるといわれるのと同じ意味において永遠でなければなりません。
あるものが永遠であるといわれるとき、一般にその本性にも永遠性が含まれます。第二部定義二により、事物とその本性は一方がなければ他方が、他方がなければ一方が、あることも考えることもできない関係にあります。したがって事物が永遠性を有するなら本性も同様でなければなりません。
もしも事物の本性に永遠性が含まれれば、その事物の形相もまた永遠です。このことは認識論的に考えればよく分かる筈です。観念対象ideatumの本性が同一であるのにideatumの形相は異なるというのは不条理です。何より観念そのものの本性が同一であるのに観念の形相が異なるといったら、これは矛盾以外の何ものでもないからです。第二部定理三七が暗示しているように、共通の性質が異なった事物の本性を構成するということはありません。
これらのことから、一般に間接無限様態は不変の形相を有することになります。延長の属性については、スピノザ自身がこのことを認めています。
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一線ということばは,ロシア語ではある特別の意味をもっているのだそうです。そしてそのことばは,『罪と罰』では,特別の使われ方をされているそうです。何冊かの本で読みましたが,ここでは謎ときシリーズの『謎とき『罪と罰』』の説明を使用します。
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『罪と罰』の罪は,ロシア語でプレストゥプレーニエです。この語源は,プレストゥピーチという動詞。この動詞は古い語形で,現代ではペレストゥピーチと発音されるようです。この動詞は,またぐとか,踏み越すといった意味。つまり一線を超えるという場合にも使用可能な動詞だそうです。
第一部の1,小説のほぼ冒頭,ラスコーリニコフは後の殺人のための下見に,老婆の家を訪れます。このとき,敷居をまたいで暗い控室に入った,と新潮文庫版には書かれています。ここでのまたぐという動詞が,ペレトゥピーチ。つまりここにすでに,ラスコーリニコフが一線を超えること,罪を犯すことが暗示されているといえるようです。
キリスト教との関連で,ラスコーリニコフの場合を紹介したとき,ソーニャはラザロの復活を音読しました。これは第四部の4。朗読を終えたソーニャとラスコーリニコフは話をします。その中に、きみだって踏みこえた……踏みこえることができたんだ、というラスコーリニコフのことばがあります。
ここで踏み越えるということばをラスコーリニコフが使用したのは、自分が殺人という罪を犯した人間であるのと同様の意味で、ソーニャも罪を犯した人間であると考えていたからだといえそうです。ラスコーリニコフが罪の告白の相手としてソーニャを選択した理由のひとつだともいえるでしょう。ラスコーリニコフとソーニャは、ラスコーリニコフからみて、同じ種類の人間であったのです。
現実的に存在する個物res singularisの観念は、どのように関連付けられれば、神のうちで十全であるといえるのでしょうか。その答えは第二部定理九にあります。現実的に存在するほかのres singularisの観念に変状した神、あるいは思惟の属性と関連付けられる限りで、この観念は真であり十全なのです。つまり現実的に存在するres singularisの観念は、その観念を存在と作用に決定する別のres singularisの観念を有する限りで神のうちにある、神のうちで十全であることになります。
なぜそのように関連付けられなければならないかは、スピノザがこの定理を論証している通りです。しかし、定理の配置というのを無視して考えるならば、この理由は、もっと別の仕方で説明することが可能であると僕は考えています。それは第一部定理二二、とりわけそこで間接無限様態が永遠であるといわれていることを根拠にする方法です。
思惟属性の間接無限様態は永遠です。僕はスピノザの哲学には永遠の一義性が成立するという考えですから、それは思惟の属性が永遠であるといわれるのと同じ意味において永遠でなければなりません。
あるものが永遠であるといわれるとき、一般にその本性にも永遠性が含まれます。第二部定義二により、事物とその本性は一方がなければ他方が、他方がなければ一方が、あることも考えることもできない関係にあります。したがって事物が永遠性を有するなら本性も同様でなければなりません。
もしも事物の本性に永遠性が含まれれば、その事物の形相もまた永遠です。このことは認識論的に考えればよく分かる筈です。観念対象ideatumの本性が同一であるのにideatumの形相は異なるというのは不条理です。何より観念そのものの本性が同一であるのに観念の形相が異なるといったら、これは矛盾以外の何ものでもないからです。第二部定理三七が暗示しているように、共通の性質が異なった事物の本性を構成するということはありません。
これらのことから、一般に間接無限様態は不変の形相を有することになります。延長の属性については、スピノザ自身がこのことを認めています。