⑧-2の第2図まで進んで後手の作戦負けですが、将棋はそれで勝負が決するほど簡単なものではありません。この将棋はその後、意外なところで決定的な差がつきました。本来の主旨から逸れますが、その局面だけ紹介しておきましょう。
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先手が▲6五銀と出てきたので歩を受けるために飛車が浮いた局面。先手は▲6六角と上がりました。△9四飛はこの一手で▲9六歩と追撃。そこで△5五角もこの一手。▲9五歩には△6六角▲同歩△8四飛で飛車の生還が可能。先手は▲3五歩と攻め味をつけ、対して後手も同じように△7五歩。▲同歩で角の利きも止められましたから、損のない一手であったといえそうです。さらに△8六歩。
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この手が悪手で、差が開くことになります。▲同歩に△3五歩と手を戻しましたが、自戦記にあるように、8筋には手をつけずに戻しておくべきでした。以下▲2五桂△3四銀の交換を入れてから▲8五歩と伸ばしたのが後手の突き捨てを逆用した好手。
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▲9五歩の受けがありません。△2五銀▲9五歩△1九角成▲9四歩で2枚取ることはできましたが、後手の玉型は飛車に弱く、そのまま先手が押し切ることになりました。
突き捨てというのは、プラスの面とマイナスの面があり、プロなら読めばある程度の目算は立てられます。この将棋は少しでも時間があれば△8六歩はマイナス要素が大きいことが分かった筈。早指し特有の悪手といえると思います。
有限であるものは無限ではないというテーゼが、スピノザの哲学において偽の命題と理解し得るということが明らかになりました。僕の論証のように、個物res singularisとは定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化した属性であるとするなら、この限りで有限なものは、属性が無限であるといわれるのと同じ意味において無限であることになります。一方、別の論証のように、res singularisは間接無限様態であると解するなら、有限なものは間接無威厳様態が無限であるといわれるのと同じ意味において無限であるということになります。
このことから、無限であるものに特有の因果性は、同時に有限であるものにも該当するような、唯一の因果性でなければならないということが帰結します。そして無限であるものに特有の因果性とは、絶対に無限である神が、神自身を産出するような因果性をおいてほかにはありません。これは作出原因と起成原因を概念の上で分離させたときの、作出原因のひとつに該当します。スピノザはこの意味においての作出原因としては、自己原因causa suiと起成原因causa efficiensだけを認めます。
スピノザはこのような前提の上で、第一部定理二五備考で、神が自己原因であるというのと、神がすべてのものの原因であるということは同一の意味であるといったのだと僕は考えます。したがって、いかに表現上は二種類の因果性というのが『エチカ』には散見するとしても、それを数的に区別することが可能な因果性であると理解するのは、誤りであろうと思います。
因果性を永遠の相と持続の相に分節するなら、持続の相の因果性は永遠の相の因果性の一種です。また、垂直と水平に分節するならば、水平の因果性は垂直の因果性の一種です。そしてそれが一種であるということは、有限であるものが、定まった存在を有する様態的変状に様態化した属性とみられる限りにおいて、無限であるものの一種であるとみられなければならないということと、同一の意味であると僕は考えます。
以上が因果性に関する僕の最終的な結論です。これで今回の考察は終了。今回はある意図をもって考察をしてきましたので、この後のまとめはごく簡単なものになります。
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先手が▲6五銀と出てきたので歩を受けるために飛車が浮いた局面。先手は▲6六角と上がりました。△9四飛はこの一手で▲9六歩と追撃。そこで△5五角もこの一手。▲9五歩には△6六角▲同歩△8四飛で飛車の生還が可能。先手は▲3五歩と攻め味をつけ、対して後手も同じように△7五歩。▲同歩で角の利きも止められましたから、損のない一手であったといえそうです。さらに△8六歩。
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この手が悪手で、差が開くことになります。▲同歩に△3五歩と手を戻しましたが、自戦記にあるように、8筋には手をつけずに戻しておくべきでした。以下▲2五桂△3四銀の交換を入れてから▲8五歩と伸ばしたのが後手の突き捨てを逆用した好手。
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▲9五歩の受けがありません。△2五銀▲9五歩△1九角成▲9四歩で2枚取ることはできましたが、後手の玉型は飛車に弱く、そのまま先手が押し切ることになりました。
突き捨てというのは、プラスの面とマイナスの面があり、プロなら読めばある程度の目算は立てられます。この将棋は少しでも時間があれば△8六歩はマイナス要素が大きいことが分かった筈。早指し特有の悪手といえると思います。
有限であるものは無限ではないというテーゼが、スピノザの哲学において偽の命題と理解し得るということが明らかになりました。僕の論証のように、個物res singularisとは定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化した属性であるとするなら、この限りで有限なものは、属性が無限であるといわれるのと同じ意味において無限であることになります。一方、別の論証のように、res singularisは間接無限様態であると解するなら、有限なものは間接無威厳様態が無限であるといわれるのと同じ意味において無限であるということになります。
このことから、無限であるものに特有の因果性は、同時に有限であるものにも該当するような、唯一の因果性でなければならないということが帰結します。そして無限であるものに特有の因果性とは、絶対に無限である神が、神自身を産出するような因果性をおいてほかにはありません。これは作出原因と起成原因を概念の上で分離させたときの、作出原因のひとつに該当します。スピノザはこの意味においての作出原因としては、自己原因causa suiと起成原因causa efficiensだけを認めます。
スピノザはこのような前提の上で、第一部定理二五備考で、神が自己原因であるというのと、神がすべてのものの原因であるということは同一の意味であるといったのだと僕は考えます。したがって、いかに表現上は二種類の因果性というのが『エチカ』には散見するとしても、それを数的に区別することが可能な因果性であると理解するのは、誤りであろうと思います。
因果性を永遠の相と持続の相に分節するなら、持続の相の因果性は永遠の相の因果性の一種です。また、垂直と水平に分節するならば、水平の因果性は垂直の因果性の一種です。そしてそれが一種であるということは、有限であるものが、定まった存在を有する様態的変状に様態化した属性とみられる限りにおいて、無限であるものの一種であるとみられなければならないということと、同一の意味であると僕は考えます。
以上が因果性に関する僕の最終的な結論です。これで今回の考察は終了。今回はある意図をもって考察をしてきましたので、この後のまとめはごく簡単なものになります。