スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

瑞峰立山賞争奪戦&N伯父の納骨

2014-08-31 18:55:32 | 競輪
 優勝候補の一角だった武田が初日に失格という波乱の幕開けとなった富山記念の決勝。並びは新田-菊地の北日本、浅井-金子-北野の中部、川村-村上の京都で野田と松川の九州は連携せず単騎。
 金子がスタートを取って浅井が前受け。4番手に川村、6番手に松川、7番手に新田、最後尾に野田で周回。残り3周のホームの出口から新田が野田まで連れて上昇開始。バックで浅井を叩きました。これに川村が松川まで連れて続き、ホームでは新田を叩いて前に。引いた浅井が即座に巻き返し、スイッチした松川まで4人が前に。浅井はそのまま緩めず先行。打鐘前のバックでは松川の後ろに川村、切り替えた野田が村上の後ろに入り、新田が後方という隊列に。新田はこの位置から発進。菊地はマークしきれず単騎に。ほぼ1周かけてバックで前まで迫りましたが、金子に番手発進されて一杯。代わって外から自力を出した村上が襲い掛かりましたが、さすがに楽な競走になった金子に迫るところまではいかれず、振り切った金子の優勝。4分の3車身差の2着に村上。結果的に村上追走になった野田が半車輪差で3着。
 優勝した愛知の金子貴志選手は5月の松阪記念以来となる記念競輪7勝目。富山記念は初優勝。浅井の先行はこのメンバーだと考えにくいと思っていた展開。ところが予想外に早い段階で発進。脚力はありますから、あれではほかのラインが追い付くのに力を要します。最大の敵と目された新田に迫られたのも残り半周の付近ですから、そこから出ていけば当然ながら有利。流れ上のものであったのかもしれませんが、浅井の走行が、金子を優勝させるためのものになりました。逆にいうなら金子はそれだけの信頼を得ているということでしょう。

 2月1日、土曜日。事前の予定通り、午前10時過ぎに従兄が迎えに来てくれました。同乗してまずは寺へ。同じ区内で、通夜と葬儀を執り行ったセレモニーホールよりも近いですから、10分も後には到着です。法要は11時から。
 N伯父の法要をここで行うのは当然ながら初めて。ただ、N伯父の妻で、父の次姉の法要は何度もここで行ったことがあります。そのとき、ここの本堂は畳敷きで、座布団に座る形でした。でもこの日は椅子が用意されていまして、着席しての法要でした。高野山真言宗で読経は35分ほどでした。
 続いて納骨のために墓地へ。墓地も同じ磯子区内ですが、金沢区や港南区、栄区とも接している辺り。僕の家は同じ磯子区でも、中区や南区に近いですから、端と端といった関係にあり、かなり遠いです。ここにも何度か来ています。最初に来たのは先述の伯母の納骨のとき。これはアサクサキングス菊花賞を勝った日でしたから、2007年10月21日だったことになります。墓地までは別の従兄、「永久欠番」で紹介した伯父の次兄の乗用車に同乗させてもらいました。到着したのは正午過ぎ。
 納骨を終えて墓地を出たのは午後12時40分頃。この後、精進落しが予定されていました。これは金沢区内にある料亭。建物自体が文化財になっているような立派なところで、おそらくこのようなところで食事をするのはこれが最初で最後になるのではないかと思いました。到着したのは午後1時過ぎ。部屋から見える庭も大変に広いもので、このときは紅梅と白梅が共に咲いていました。
 料亭で、この建物と庭ですから出てきたのは日本料理。順に出てきますのでどこで終るかが不明ですし、インスリンを注射する身としては悩ましいところ。ただ、通常の場合、昼は0.08㎎のヒューマログですが、こうしたときはすべてを食せば足りないのが目に見えていますので、少し多めに打つようになりました。U先生はむしろそのようにした方がいいという考え方で、僕もその影響を受けたわけです。
 お開きとなったのが午後3時40分頃。寺以降ずっと同乗させてもらっていた従兄に家まで送ってもらいました。帰宅は午後4時20分頃でした。
コメント
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