スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイク&通院日の変更

2014-09-26 19:04:36 | NOAH
 おそらくは双方の思惑の一致で仲間割れに至ったジャイアント・馬場とラッシャー・木村。これ以降は馬場と国際血盟軍の抗争に発展。もっとも,抗争というようなことばで表現すべき戦いであったかは微妙。とりわけ国際血盟軍が木村と鶴見五郎のふたりになり,どこの会場でも馬場&X対木村&鶴見という試合が行われるようになってからは,ほのぼのとしたような感じさえ抱かせるようになりました。そうした中で自然発生してきたのが木村のマイクパフォーマンスです。
 木村は馬場だけを標的としていました。しかしタッグマッチばかりでしたから,シングルマッチを迫るというのが初期の内容。プロレスにはマイクパフォーマンスというのがあるのであって,その頃はそれを逸脱するような内容ではなかったと僕は記憶しています。
 ところがそのうちに木村は妙なことを言い出すようになりました。たとえば,今日は試合に勝とうと思って焼肉を5人前も食べてきたけれども負けてしまったから,今度は10人前食べてくる,といったようなこと。確かに勝とうとする意欲の表出と受け取れなくもありませんが,おおよそそれまでのプロレスのマイクパフォーマンスとしての規範を逸脱したようなものであったことも事実。聞いて笑い出すようなファンも多かったわけで,笑いを取りにきていたのも真実であったと思います。ただ,木村は実直な人柄というのをこの頃にはリング上で表現できるようにもなっていました。ただのお笑いではなく,ひとつのパフォーマンスとして成立し得たのは,その木村のキャラクターのなせる技であったのだと,今となっては思えます。
 少なくとも僕のプロレスキャリアが始まってからこの頃まで,木村はそこまで人気のあるレスラーではなかったと思います。しかしこのマイクパフォーマンスで,じわじわと上昇。試合後に観客がパフォーマンスを求めるようになってきました。そしてその木村の人気を不動のものにしたのも,やはりマイクパフォーマンスであったと僕は認識しています。1988年8月29日,日本武道館。ブロディメモリアルの夜でした。

 7月15日,火曜日。妹がショートステイへ。磯子区内の施設で2泊3日。5月が中止,6月はこちらの都合で1泊になりましたから,2泊のショートステイは4月以来のことでした。荷物は前日に運んでもらいましたので,迎えの支援は依頼していません。17日の帰宅時に送りの支援を要請したのは,いつもと同じです。
 7月20日,日曜日。妹の眼鏡が破損してしまったので,母とふたりで修理に行きました。ついでですから昼食も外食で済ませています。
 7月26日,土曜日。ガイドヘルパーの利用が予定されていました。しかし,当日になって連絡があり,ヘルパーの体調不良によって中止となってしまいました。予定されていたのはボーリングで,妹が好むレジャーですから,妹には気の毒でありましたが,こうした事情では致し方ありません。
 7月30日,水曜日。夜にK先生から電話が入りました。次回の通院は9月8日の月曜に設定されていたのですが,その日は先生の都合が悪く,休診となるので,日を変えてほしいという依頼でした。通院は月曜日ですから,1週前か1週後ですが,1週後の15日というのは祝日ですから変更は不可能。ということで,1週前の9月1日の午後3時に変更ということになりました。
                         
 こうしたケースは初めてでしたが,仮に1週後に予約変更が可能であったとしても,僕は1週前に変更してもらいます。これは処方箋の関係。インスリンはたぶん1週後になっても残量はあると思うのですが,注射針の方は1週後に必ず残りがあるとは限らないからです。父の死が目前に迫っていたとき,僕の通院が設定されていたことが,当時の僕の心配事のひとつになっていたように,基本的に僕は通院を遅らせるということはしたくないのです。
 そしてこの日の晩,台所のパイプが詰まってしまったようで,シンクに水が溜まってしまいました。正月に同じことが発生したとき,水道管の劣化が原因であると示唆されていたので,またこうしたことが生じ得るということは想定していました。半年ほど経って,それが現実のものとなったのです。すぐに業者に連絡し,水が流れるようにしてもらいました。
コメント
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