スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

岸和田キング争覇戦&思惟的実体と神

2014-12-02 19:23:11 | 競輪
 年末のグランプリの舞台にもなる岸和田記念の決勝。並びは木暮-志村の上甲,川村-村上博幸-村上義弘の京都,南-前田の大阪で,明田と松岡は単騎。
 村上兄弟がスタートを取りにいって川村の前受け。4番手に南,6番手に木暮,8番手に松岡,最後尾に明田の周回に。残り2周のホームの手前から木暮が上昇。単騎の両選手と南も続き,引いた川村は7番手。ここから超スローペースになり,バックで単騎の松岡が前に出て打鐘。川村が発進していき,あっさりと京都の3選手で前に出ると,4番手に木暮,5番手に南という隊列に。村上博幸も村上義弘も車間を少しずつ開けて盤石の態勢。直線やや手前から踏み込んだ村上博幸を,さらに外から村上義弘が交わして優勝。村上博幸が半車身差で2着。川村も半車身差の3着に粘って京都の上位独占。
                         
 優勝した京都の村上義弘選手は8月の向日町記念以来の優勝で記念競輪28勝目。岸和田記念は初優勝ですが,2002年に当地で開催された全日本選抜を優勝しています。ここは力量が上位の3人でラインを結成。競り込みの有無が焦点でしたが,ありませんでしたので,京都勢にとっては最高の展開に。とはいえ直線勝負で番手絶好の弟を抜いたのですから,内容的にも強かったという表現がぴったりではないでしょうか。グランプリでどのような並びになるのか注目したいところです。

 僕がしたように解したデカルトの哲学の思惟的実体が,神の協力がなくても実在し得る実体であると仮定します。この場合に,デカルトの哲学では,思惟的実体を神と同一視できることになるのだと僕は理解します。そしてこれは,デカルトの主張そのものであると解して問題ないと僕は思います。
 デカルトは,思惟する限りでは,神の最高の完全性は損なわれないと考えていたのでした。これはスピノザの哲学の立場でいえば,第一部定理二一の仕方で,思惟の属性の直接無限様態である無限知性が生じるとき,デカルトは神をその作出原因と認めるというのみならず,第二部定理九の仕方で,個々の思惟作用がある有限知性のうちに生じる場合にも,神をその作出原因であると認めるということです。断っておきますが,僕はデカルトがそう主張したといっているのではありません。スピノザの哲学からは,そのように解せるといっているだけです。
 つまりこの場合には,思惟的実体を認識するということと,神を認識するということは,同一であることになります。個々の思惟作用が帰せられるべき実体は思惟的実体以外にあり得ません。そしてそれが神に帰せられるのであれば,思惟的実体のことを神といっているのにほかならないからです.とりわけデカルトの場合,無限に多くの実体が存在するというようには主張してなく,さらに物体的実体と神とを同一視することは不可能になっていますから,思惟的実体と神は,文字通りに一対一で対応し合うことになると思われます。つまり思惟的実体は神であるということが真の命題であるのと同じように,神とは思惟的実体であるという命題も真になるように僕には思えます。
 なのでこの場合にも,思惟的実体はそれ自体で認識されているとはいえません。思惟的実体と神が同一であるというのは,名目的に思惟的実体といわれるものは,実在的には神であると解釈するのが最も妥当であると思うからです。つまり思惟的実体を認識するということは,神を認識するということと同じ意味になりますが,これは神の認識なしに思惟的実体が認識されることはないといっているのと同じことだといえます。
コメント
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