ジョー・樋口がNOAHに参加することになったのは,樋口と三沢の間に,ある信頼関係があったからだと考えられます。そして樋口は,自身と馬場との関係についても明かしています。
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『心に残るプロレス名勝負』によれば,猪木が日本プロレスを除名され,馬場が日本プロレスを退団した頃,つまり1971年から1972年にかけて,樋口も日本プロレスを辞めようと思ったそうです。樋口は外国人係を兼務していましたし,アメリカでもレフェリーの経験があり,レフェリングを高く評価されていました。だから辞めた後はアメリカに移住し,レフェリーとして生活していこうと考え,内々に承諾も得ていました。
1972年7月に退社。いよいよアメリカに行くばかりとなったのですが,すぐに馬場から電話があり,旗揚げを目指していた全日本プロレスに誘われました。馬場は当初から樋口を誘いたいと思っていたようで,おそらく樋口の力量を評価していたのでしょう。しかし退団した会社の人間を誘うことはできないと考えていたため,退社後のこのタイミングになったようです。
このとき樋口には妻と,中学生の子息がいました。ふたりともアメリカ移住に渋々ながら同意していたようですが,馬場の誘いで樋口自身の覚悟がぐらついてしまったそうです。それで馬場の好意を受ける形で,全日本プロレスに入社し,日本に留まることにしたそうです。これだと家族の都合だけを優先させたかのようですが,馬場が設立する会社ならば日本プロレスのようなことにはならないだろうと思えたともいっていますから,馬場に対する信頼感もあったのでしょう。逆にいえば誘ったのが馬場以外の人間であったなら,アメリカに移住していた可能性の方が高かったのではないかと僕には思えます。
すでにアメリカのプロモーターから得ていた承諾を断るために,樋口は剃髪したそうです。僕のプロレスキャリアの中では,樋口はスキンヘッドのレフェリーでしたが,それはこのときに誕生し,それ以後はずっと継続されたことになります。ここには樋口の律義さが垣間見えるように思えます。
ライプニッツはスピノザのよき理解者であった。しかしそれは,ライプニッツがスピノザが示した実体と属性の形而上学的側面を,正しく認識したという意味なのであり,それに同意したという意味ではありません。同意したかどうかは,ライプニッツ自身の哲学を調べてみなければ分からないのです。だから,たとえばデカルトとスピノザを比較したときに,スピノザにだけ特化して成立するような疑問をライプニッツが投げ掛けたという事実は,ライプニッツの思想と関連させるなら,ふたつの可能性があったと理解しておかなければなりません。
ひとつは,デカルトとスピノザを比べたなら,ライプニッツはスピノザを選択したというものです。その上で,スピノザの論理には矛盾があるのではないかと疑問を呈し,さらに矛盾のない方向に推進しようとした可能性です。基本的に前回の考察は,この可能性から展開されたといえます。正確にいうなら,当時の僕には,これ以外の可能性が思い浮かばなかったといった方がいいかもしれません。僕自身がスピノザ主義の立場なので,ライプニッツの疑問も,まずはその方面から理解するのはごく自然だからです。
しかしよく考えれば,ライプニッツはデカルトの立場を選択した可能性も否定できません。むしろそういう立場にあったから,それとは異なるスピノザの形而上学を誤りであると考え,その論理を崩壊させるために疑問を呈したと考えるのは,むしろ一般的にある論理に疑問を出すということからしたら,自然であるように思えるからです。
実際には,これらふたつの可能性だけがあるというわけではありません。本当は,ライプニッツにはライプニッツの形而上学があるのであって,それはデカルトともスピノザとも異なっていると判断するのが妥当でしょう。しかしこのためには,ライプニッツの哲学を精査する必要があり,僕はそれをやろうという気にはなりません。後に示しますが,スピノザとライプニッツの間の乖離の最も重要な部分は,これとは別にあると僕は考えているからです。なので形而上学に関しては,ライプニッツはスピノザに同意していないということだけを前提とします。
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『心に残るプロレス名勝負』によれば,猪木が日本プロレスを除名され,馬場が日本プロレスを退団した頃,つまり1971年から1972年にかけて,樋口も日本プロレスを辞めようと思ったそうです。樋口は外国人係を兼務していましたし,アメリカでもレフェリーの経験があり,レフェリングを高く評価されていました。だから辞めた後はアメリカに移住し,レフェリーとして生活していこうと考え,内々に承諾も得ていました。
1972年7月に退社。いよいよアメリカに行くばかりとなったのですが,すぐに馬場から電話があり,旗揚げを目指していた全日本プロレスに誘われました。馬場は当初から樋口を誘いたいと思っていたようで,おそらく樋口の力量を評価していたのでしょう。しかし退団した会社の人間を誘うことはできないと考えていたため,退社後のこのタイミングになったようです。
このとき樋口には妻と,中学生の子息がいました。ふたりともアメリカ移住に渋々ながら同意していたようですが,馬場の誘いで樋口自身の覚悟がぐらついてしまったそうです。それで馬場の好意を受ける形で,全日本プロレスに入社し,日本に留まることにしたそうです。これだと家族の都合だけを優先させたかのようですが,馬場が設立する会社ならば日本プロレスのようなことにはならないだろうと思えたともいっていますから,馬場に対する信頼感もあったのでしょう。逆にいえば誘ったのが馬場以外の人間であったなら,アメリカに移住していた可能性の方が高かったのではないかと僕には思えます。
すでにアメリカのプロモーターから得ていた承諾を断るために,樋口は剃髪したそうです。僕のプロレスキャリアの中では,樋口はスキンヘッドのレフェリーでしたが,それはこのときに誕生し,それ以後はずっと継続されたことになります。ここには樋口の律義さが垣間見えるように思えます。
ライプニッツはスピノザのよき理解者であった。しかしそれは,ライプニッツがスピノザが示した実体と属性の形而上学的側面を,正しく認識したという意味なのであり,それに同意したという意味ではありません。同意したかどうかは,ライプニッツ自身の哲学を調べてみなければ分からないのです。だから,たとえばデカルトとスピノザを比較したときに,スピノザにだけ特化して成立するような疑問をライプニッツが投げ掛けたという事実は,ライプニッツの思想と関連させるなら,ふたつの可能性があったと理解しておかなければなりません。
ひとつは,デカルトとスピノザを比べたなら,ライプニッツはスピノザを選択したというものです。その上で,スピノザの論理には矛盾があるのではないかと疑問を呈し,さらに矛盾のない方向に推進しようとした可能性です。基本的に前回の考察は,この可能性から展開されたといえます。正確にいうなら,当時の僕には,これ以外の可能性が思い浮かばなかったといった方がいいかもしれません。僕自身がスピノザ主義の立場なので,ライプニッツの疑問も,まずはその方面から理解するのはごく自然だからです。
しかしよく考えれば,ライプニッツはデカルトの立場を選択した可能性も否定できません。むしろそういう立場にあったから,それとは異なるスピノザの形而上学を誤りであると考え,その論理を崩壊させるために疑問を呈したと考えるのは,むしろ一般的にある論理に疑問を出すということからしたら,自然であるように思えるからです。
実際には,これらふたつの可能性だけがあるというわけではありません。本当は,ライプニッツにはライプニッツの形而上学があるのであって,それはデカルトともスピノザとも異なっていると判断するのが妥当でしょう。しかしこのためには,ライプニッツの哲学を精査する必要があり,僕はそれをやろうという気にはなりません。後に示しますが,スピノザとライプニッツの間の乖離の最も重要な部分は,これとは別にあると僕は考えているからです。なので形而上学に関しては,ライプニッツはスピノザに同意していないということだけを前提とします。