スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

先生の認識&架空の設定

2014-12-22 19:32:42 | 歌・小説
 一介の下宿人にすぎなかった先生が,下宿部屋として一家の主に相応しいような部屋をあてがわれたことについて,先生自身はどのように認識していたのでしょうか。
                         
 僕は,先生は,自分がこの家の主として扱われていたこと,いい換えればゆくゆくはお嬢さんと結婚することを望まれていたことを,明確に認識していたのではないかと思います。ただしその認識がいつ発生したのかまでは分かりません。それでも,少なくとも先生がKに同居を誘った時点では,先生はそのことをはっきりと理解していたと思います。ことによるとこの先生の認識は,先生の優越感と何らかの関係があるかもしれません。
 この解釈の根拠を説明します。
 下の十五,これは先生の遺書の中身ですが,ここで先生は,自分がこの家で十分に信用されていると確かめたといっています。もちろんこれは遺書で,かつての出来事を再構成して書かれたものですから,十分な根拠にはなり得ないことは認めます。というのも後から考えれば,自分はこの時点では自分への信用を確認していたのだと結論し,その時点では意識に上っていなかったことを記述している可能性を否定できないからです。
 でも先生はその直後に,この信用と,自分が受けた長男の悲劇とを絡めて考えたと書いています。つまり奥さんとお嬢さんが叔父のような企みをもって自分に接近しているのではないかと疑ったのです。いい換えれば先生との同居についてはあっさりと承諾した奥さんに,ある意図があったのではないかと疑うようになったということです。
 この疑念は,後に再構成されたと考えることはできません。むしろその時点でそういう疑惑をもったからこそ,遺書にそう記述できたとしかいいようがないからです。しかしこの疑惑が発生するためには,自分がお嬢さんの結婚相手に望まれているという観念が必要です。それを先生は信用ということばで表現したのだと解するのが妥当だと僕は思うのです。
 遺書にKが登場するのは十九に入ってから。だからKとの同居以前に,先生のうちにはこうした認識があったと解するのです。

 スピノザ形而上学の枠内での解決方法になぜライプニッツは満足できないのか。このことをまたスピノザ形而上学から説明するためには,架空の設定を施す必要があります。本当はそういうことはしたくないのですが,ライプニッツの疑問の本質を探るためには避けて通ることができない道なので,今回はこの方法を採用します。
 まず,属性Yがあって,このYが実体Aの本性を構成すると知性が認識することについていえば,これはスピノザ形而上学の規定に反することではないと僕は解します。属性が実体の本性で,事物と本性の区別が理性的区別であるなら,属性が認識されるということと,実体が認識されるということは,この枠の中に限定するなら同一の事柄だからです。よって属性Yを知性は認識するという条件だけが整えばこのことは貫徹されます。実際に僕たちが属性を知覚するという事実に訴えてもこの条件は整っていますし,単に名目的に知性が属性を認識するということを仮定したとしても,条件としては十分であると僕は考えます。名目性の方が問題の中心になっているので,後者で考える方がなお好ましいとはいえるでしょう。
 次に,この条件が満たされた上で知性が属性Xを認識し,これが属性Yと同様に実体Aの本性を構成すると知性が認識するということについては,僕はスピノザ形而上学の枠内では説明が不可能であると考えます。いい換えれば,属性Xと属性Yが協同して実体Aの本性を構成すると認識することは,スピノザの哲学における知性には不可能であると僕は考えるのです。ライプニッツの疑問はこの設定をしています。他面からいえば,ライプニッツはこれが可能であると考えていたと理解するのが妥当でしょう。しかしこの点に関しては,後に譲ります。先述したように,僕はスピノザの哲学ではこれが不可能であると考えています。架空の設定とは,この考えを無視して,ライプニッツが設定した条件に応じるという意味です。
 なぜ僕がそれを架空の設定とみなすのかということについてはいくらかの説明を要するでしょう。普通はライプニッツの設定には無理がないと理解されると推測されるからです。
コメント
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