4日に行われる予定でしたが,荒天のため今日に順延されたオーストラリアのロイヤルランドウィック競馬場でのドンカスターマイルGⅠ芝1600m。
リアルインパクトは3,4番手の外,ワールドインパクトは一団となった馬群の後方付近を追走。ワールドエースは直線を前に押していき,外に持ち出す構え。リアルインパクトは絶好の手応えのまま,内の馬たちに押し出されるように先行勢の大外に。ここからリアルインパクトが内の馬たちを交わして先頭に。残り100mでは抜け出す態勢でしたが,馬群の真只中を追い込んできた馬が,最後はリアルインパクトのすぐ内から脚を伸ばすと,リアルインパクトは抵抗できず。しかし外を強襲してきた馬の追撃は凌ぎ,およそ1馬身4分の3差で2着。ワールドエースは最後は外から2頭目を追い込む形となり,それなりの脚は見せたもののおよそ5馬身差で8着。
リアルインパクトはいい競馬をしてくれたと思います。ただ,これだけの頭数で大外近くからの発走はやはり不利で,できればもう少し内目の枠がほしかったところでしょうか。ワールドエースも前回よりは内容は良化していたと思います。おそらく調子が上がっていたのでしょう。それでこの結果ですから,勝ち負けするまでには力に足りないところがあるということなのだと思います。
第二部定理四九は,ある意志作用が現実的に存在するためには何らかの観念が現実的に存在していなければならないということと,何らかの観念が現実的に存在するならば,ある意志作用が必ず現実的に存在するというふたつの意味を含みます。いい換えれば,個々の観念と各々の意志作用は理性的区別によってのみ区分が可能であるということを含みます。したがって,ある人間の精神のうちに何らかの意志作用があるということは,その人間の精神の現実的本性を構成する観念なしには考えることができません。よって,人間の意志作用を正しく説明するためには,その人間の精神の現実的本性の,少なくとも一部についての説明が不可欠であるということになります。ですからライプニッツがもしも個々の意志作用が神の善意の裁量のうちにあると説明しても,その説明とスピノザのこの説明とを比較したなら,ライプニッツの人間観の方がよほど人間を運命的な存在と規定していることは明白だといえるでしょう。
第三部諸感情の定義一は,現実的に存在する人間が受動的である限り,欲望がその人間の本性であることを示します。第四部定理四は,現実的に存在する人間が受動を免れ得ないということを意味しますから,人間の現実的本性が欲望として考えられなければならない場合が必然的に生じます。したがって少なくともこの場合には,ある人間とその人間の欲望は,理性的にのみ区別することが可能であることになります。つまり現実的に存在する人間の欲望について正しく説明する場合には,受動という状態にあるその人間について説明することが不可欠であることになります。ですからライプニッツが現実的に存在する人間が何を欲望するのか,いい換えるなら,現実的に存在する人間が何を希求し何を忌避するかが,神の善意の裁量のうちにあるのだと主張したとしても,やはりこのスピノザの説明と比較した場合には,ライプニッツはだいぶ人間を運命的な存在であると規定していることになる筈です。
ライプニッツがキリスト教を守るという目的から構築しようとした哲学にとって,この帰結は重大な問題になり得るのではないかと僕には思えます。
リアルインパクトは3,4番手の外,ワールドインパクトは一団となった馬群の後方付近を追走。ワールドエースは直線を前に押していき,外に持ち出す構え。リアルインパクトは絶好の手応えのまま,内の馬たちに押し出されるように先行勢の大外に。ここからリアルインパクトが内の馬たちを交わして先頭に。残り100mでは抜け出す態勢でしたが,馬群の真只中を追い込んできた馬が,最後はリアルインパクトのすぐ内から脚を伸ばすと,リアルインパクトは抵抗できず。しかし外を強襲してきた馬の追撃は凌ぎ,およそ1馬身4分の3差で2着。ワールドエースは最後は外から2頭目を追い込む形となり,それなりの脚は見せたもののおよそ5馬身差で8着。
リアルインパクトはいい競馬をしてくれたと思います。ただ,これだけの頭数で大外近くからの発走はやはり不利で,できればもう少し内目の枠がほしかったところでしょうか。ワールドエースも前回よりは内容は良化していたと思います。おそらく調子が上がっていたのでしょう。それでこの結果ですから,勝ち負けするまでには力に足りないところがあるということなのだと思います。
第二部定理四九は,ある意志作用が現実的に存在するためには何らかの観念が現実的に存在していなければならないということと,何らかの観念が現実的に存在するならば,ある意志作用が必ず現実的に存在するというふたつの意味を含みます。いい換えれば,個々の観念と各々の意志作用は理性的区別によってのみ区分が可能であるということを含みます。したがって,ある人間の精神のうちに何らかの意志作用があるということは,その人間の精神の現実的本性を構成する観念なしには考えることができません。よって,人間の意志作用を正しく説明するためには,その人間の精神の現実的本性の,少なくとも一部についての説明が不可欠であるということになります。ですからライプニッツがもしも個々の意志作用が神の善意の裁量のうちにあると説明しても,その説明とスピノザのこの説明とを比較したなら,ライプニッツの人間観の方がよほど人間を運命的な存在と規定していることは明白だといえるでしょう。
第三部諸感情の定義一は,現実的に存在する人間が受動的である限り,欲望がその人間の本性であることを示します。第四部定理四は,現実的に存在する人間が受動を免れ得ないということを意味しますから,人間の現実的本性が欲望として考えられなければならない場合が必然的に生じます。したがって少なくともこの場合には,ある人間とその人間の欲望は,理性的にのみ区別することが可能であることになります。つまり現実的に存在する人間の欲望について正しく説明する場合には,受動という状態にあるその人間について説明することが不可欠であることになります。ですからライプニッツが現実的に存在する人間が何を欲望するのか,いい換えるなら,現実的に存在する人間が何を希求し何を忌避するかが,神の善意の裁量のうちにあるのだと主張したとしても,やはりこのスピノザの説明と比較した場合には,ライプニッツはだいぶ人間を運命的な存在であると規定していることになる筈です。
ライプニッツがキリスト教を守るという目的から構築しようとした哲学にとって,この帰結は重大な問題になり得るのではないかと僕には思えます。