スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第二部定理七&モナドの区別

2015-04-10 19:16:30 | 哲学
 『個と無限』を参考にして,第二部定理七証明の意味がどういった内容でなければならないかを検証しました。今後の利便性を考慮に入れて,第二部定理七自体を改めて取り上げておきましょう。
                         
 「観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である(Ordo, et connexio idearum idem est, ac ordo, et connexio rerum.)」。
 何といっても重要なのが,この定理Propositioでいわれている物rerumというのが,第二部定義一で示されている物体corpusではないということです。岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,第一部公理六対象ideatumと訳した直後に,観念されたものという独自の訳語を補足しています。第二部定理七でいわれている物というのは,このような意味において観念されたもののことです。したがってこの定理が意味しているのは,観念ideaと観念対象は,秩序と連結が同一であるということです。
 そうであるなら,スピノザがこの定理で観念対象という語を用いなかったのは不思議に思えます。ただ,観念対象という語句は,あくまでも知性intellectusのうちにある意味においてのものというように理解されかねません。第二部定理七でスピノザがいいたいのは,観念対象がそれ自体で知性を離れたものとして,すなわち形相的なformalis事物rerumとしてみられたとしても,その事物とその事物の観念の秩序ordoと連結connexioは同一であるということだったと考えられます。このゆえに,ここでは観念対象とはいわれていないのではないでしょうか。
 第一部公理三は,事物が形相的にformaliterあろうと客観的にobjectiveすなわち観念としてあろうと同様に成立します。したがって何らかの形相的事物Xが実在するなら,Xが実在する原因causaが存在します。一方,第一部公理四は,結果effectusの認識cognitioが原因の認識に依存しなければならないことを示しています。したがって,たとえばYが原因となってXが形相的に存在するなら,Xの観念はYの観念に依存することになります。いい換えればYの観念が原因となってXの観念が存在することになります。つまりXとXを観念対象とする観念の秩序と連結は一致します。
 カーリーEdwin Curleyは腹立たしくなると憤慨していますが,スピノザがこの定理を第一部公理四にのみ訴えるだけで証明Demonstratioをすませたのは,こうした理由によるものと考えます。

 あるモナドと別のモナドは,明らかに実在的に区別されなければなりません。ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの哲学では,実体substantiaがそれ自身のうちにあるesse in seということ,いい換えれば,モナドがそれ自身のうちにあるということは,このことの根拠とはなり得ないと僕は考えます。なぜなら,もしもそれが区別distinguereの根拠であるなら,モナドが神Deusによって考えられなければならないということと矛盾を来してしまうからです。モナドがそれ自身のうちにあるという根拠によってのみ,あるモナドと別のモナドを区別することが可能であるとするなら,その限りにおいて,モナドはそれ自身で認識されている必要があるからです。したがって,むしろモナドが神によって考えられるということのうちに,実在的区別の根拠があるとライプニッツは主張しなければならない筈です。
 スピノザ主義の立場からは,ライプニッツは不可能な主張をしなければならないということになります。ヘーゲルのライプニッツ批判が示しているのがまさにこのことだからです。しかし,スピノザ主義というものがあるなら,ライプニッツ主義があっても構わないわけで,ライプニッツ主義の立場からは,それが根拠となり得るというようにライプニッツの哲学は構築されていなければなりません。
 モナドすなわち実体が神によって認識されるとライプニッツが主張するとき,おそらくあるモナドは別のモナドによって考えられることはないということも含まれているのだろうと推測します。というか,このように推測しておかないと,あるモナドと別のモナドが,様態的にではなく実在的に区別されるということは不可能だと僕は考えます。したがって,あるモナドと別のモナドが実在的に区別され得るのは,どんなモナドも,それ以外のモナドによっては認識され得ないという点にあると僕は考えます。
 部分的には,これはスピノザ主義とも折合いがつきます。というのは,スピノザ主義における実在的区別というのは,共通点を有さないものの間での区別だからです。第一部公理五が示すように,共通点がないものは,一方を認識しても他方を認識することが不可能です。この規準だけは満たしているといえるでしょう。
コメント
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