姫路で指された第26期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は甲斐智美女流王位が8勝,里見香奈女流名人が13勝。棋譜中継のコメントと異なっているのは,NHK杯の女流予選の結果を含めているからです。
振駒で甲斐女流王位が先手となり,里見女流名人の一手損角換り2から四間飛車。その後,後手が向飛車,先手が右四間飛車になり,先手が攻めて後手が受ける展開に。途中までは先手が快調に攻めていたと思います。
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先手が端を取り込んで,後手玉が9三から逃げた局面。逃がしてしまった感があり,すでに先手が容易には勝てなくなっています。
7三の桂馬が動いて後手玉に引かれても,次に△7五玉と取られても先手の勝ちはありませんから,▲7六銀と上がったのは当然だと思います。対して△3七角成と桂馬を取っていますので,後手にはそれだけの余裕があったということでしょう。▲7七桂と後手玉頭に圧力。そこで△9六歩と垂らしました。
利かされでも取ってしまうのではないかと思いましたが▲8五歩。△同桂▲同桂は必然。詰めろでしたが△9二飛という大転換。こういう手が生じては先手はいよいよ苦しくなった感じです。▲9三銀と打つのはたぶん仕方がなく,△同飛▲同桂成△同香。そこで▲9六香ですが,さすがに辛そうです。
手番の後手は△7七歩。▲同王で応じましたが△4六馬が詰めろ。ここでは後手が勝勢でしょう。
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里見名人が先勝。第二局は来月13日です。
なぜ両立不能となってしまうのか。もう一度,両立の条件に戻って,コイントスで考えてみましょう。
僕たちがコイントスによって何事かを決定するのは,表が出るか裏が出るかが分からないということが前提となっているからです。これはとくに説明の必要がないでしょう。しかし同時に,どちらかが実際に出たときには,その限りにおいて出た方が真理であるということも前提されているからでもあります。これを認めないと,たとえば表が出たときに,それが本当に表であるかを問わなければなりません。よってコイントスによって何事かを決定することはできないでしょう。
これと同じことが、神によるモナドの選択にも妥当しなければなりません。そうでないと,神が実際に選択した現実世界が,現実世界であることを問わなければならなくなるからです。しかし現実世界は現に存在するのですから,それを問うのは不条理です。それがあらゆる可能世界のうちで最善であるかどうかは問うことはできますが,ライプニッツ主義の中ではそれもまた真理であると規定し得ます。
これらをみれば分かるように,ある事柄を真偽不明であると認識することと,現実的に存在する事柄自体が真偽不明であるということは,等置することができないのです。つまり,ある事柄が神にとって真偽不明であるということと,真偽不明である事柄が知性を離れて存在するということは,等置することができません。いい換えれば,ライプニッツ主義にとって最適の条件は成立しないということになります。スピノザ主義的にいえば,偶然と可能は知性の認識に関連してのみいわれるのであり,自然のうちの事柄は,そのすべてが必然と不可能によって説明され得るということになります。
ライプニッツ主義では,真偽不明の規準は神にあるので,神にとって真偽不明のことがあるということは否定できません。そして神の決定の実現が必然的であるということも否定できません。したがって,神がモナドを選択し得るのは,真偽不明である事柄が存在するからではなく、神にとって真偽不明と認識される事柄があるということだけがその根拠になっていると僕は考えます。
振駒で甲斐女流王位が先手となり,里見女流名人の一手損角換り2から四間飛車。その後,後手が向飛車,先手が右四間飛車になり,先手が攻めて後手が受ける展開に。途中までは先手が快調に攻めていたと思います。
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先手が端を取り込んで,後手玉が9三から逃げた局面。逃がしてしまった感があり,すでに先手が容易には勝てなくなっています。
7三の桂馬が動いて後手玉に引かれても,次に△7五玉と取られても先手の勝ちはありませんから,▲7六銀と上がったのは当然だと思います。対して△3七角成と桂馬を取っていますので,後手にはそれだけの余裕があったということでしょう。▲7七桂と後手玉頭に圧力。そこで△9六歩と垂らしました。
利かされでも取ってしまうのではないかと思いましたが▲8五歩。△同桂▲同桂は必然。詰めろでしたが△9二飛という大転換。こういう手が生じては先手はいよいよ苦しくなった感じです。▲9三銀と打つのはたぶん仕方がなく,△同飛▲同桂成△同香。そこで▲9六香ですが,さすがに辛そうです。
手番の後手は△7七歩。▲同王で応じましたが△4六馬が詰めろ。ここでは後手が勝勢でしょう。
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里見名人が先勝。第二局は来月13日です。
なぜ両立不能となってしまうのか。もう一度,両立の条件に戻って,コイントスで考えてみましょう。
僕たちがコイントスによって何事かを決定するのは,表が出るか裏が出るかが分からないということが前提となっているからです。これはとくに説明の必要がないでしょう。しかし同時に,どちらかが実際に出たときには,その限りにおいて出た方が真理であるということも前提されているからでもあります。これを認めないと,たとえば表が出たときに,それが本当に表であるかを問わなければなりません。よってコイントスによって何事かを決定することはできないでしょう。
これと同じことが、神によるモナドの選択にも妥当しなければなりません。そうでないと,神が実際に選択した現実世界が,現実世界であることを問わなければならなくなるからです。しかし現実世界は現に存在するのですから,それを問うのは不条理です。それがあらゆる可能世界のうちで最善であるかどうかは問うことはできますが,ライプニッツ主義の中ではそれもまた真理であると規定し得ます。
これらをみれば分かるように,ある事柄を真偽不明であると認識することと,現実的に存在する事柄自体が真偽不明であるということは,等置することができないのです。つまり,ある事柄が神にとって真偽不明であるということと,真偽不明である事柄が知性を離れて存在するということは,等置することができません。いい換えれば,ライプニッツ主義にとって最適の条件は成立しないということになります。スピノザ主義的にいえば,偶然と可能は知性の認識に関連してのみいわれるのであり,自然のうちの事柄は,そのすべてが必然と不可能によって説明され得るということになります。
ライプニッツ主義では,真偽不明の規準は神にあるので,神にとって真偽不明のことがあるということは否定できません。そして神の決定の実現が必然的であるということも否定できません。したがって,神がモナドを選択し得るのは,真偽不明である事柄が存在するからではなく、神にとって真偽不明と認識される事柄があるということだけがその根拠になっていると僕は考えます。