漱石の被害妄想が原因となり,漱石の周囲では憎しみodiumの連鎖が発生したであろうと僕は推測しました。この推測は哲学的見解です。見解の根拠になるのは第三部定理四〇です。
「自分が他人から憎まれていると表象し,しかも自分は憎まれる何の原因もその人に与えなかったと信ずる者は,その人を憎み返すであろう」。
『エチカ』の全体の中では,この定理Propositioは第三部定理四三といくらかの関係を有します。この定理の直後の備考Scholiumでスピノザが述べているように,もしも確かに他人の憎しみの原因となり得ることを自分が与えたと信じるなら,人は第三部諸感情の定義三一で示されている恥辱pudorという悲しみtristitiaを感じるでしょうが,そういうことは稀にしか起こらないからです。いい換えればそれは例外的といえます。よってある人間に対する憎しみはその人間の自分に対する憎しみを産み,その憎しみによって自分はさらにその相手を憎むという憎しみの無限連鎖が発生します。その連鎖を断ち切りたいならば,自分を憎んでいる相手を愛するほかないという帰結になります。
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漱石の妄想は,相手が自分を憎んでいるということを含んでいます。しかしそれは妄想なのであって,相手は実際に漱石を憎んでいたわけではありません。このあたりのことは漱石自身が日記に記していることを,公平な観点から一読すれば一目瞭然といえます。なのでその妄想によって漱石に憎まれていると表象したならば,その相手は当然ながら自分が漱石が自分を憎む原因を与えたなどとは考えません。したがって妄想に端を発する漱石の憎しみによって,漱石を憎むようになるでしょう。とくに漱石の被害妄想による憎み返しは,漱石の行動を伴うようなものでしたから,こうしたことは容易に発生したであろうと推測できるのです。
これはだれが正しいとか悪いとかいう問題ではありません。受動passioを免れ得ない人間の現実的本性actualis essentiaがそのようになっているというだけのことです。こうした受動の連鎖から逃れるために,能動actioが必要とされるのです。
デカルトの場合はどうでしょうか。
デカルトはスピノザと異なり,物体的実体substantia corporeaを神Deusと別の実体と規定します。また神を絶対に無限absolute infinitumであると規定しません。あるいは無限に多くの属性attributumが実在すると規定しません。よってデカルト哲学における神は,思惟的実体とほぼ同じ意味に解せます。僕はこの点はライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizもスピノザよりデカルトに近いのではないかと思えるのですが,そこには注目しないことにしましょう。
思惟的実体であるなら,全知であることはほとんど必須の条件であるといえるでしょう。『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定理九では,神は全知であるといわれています。そしてそれは,デカルトの神の定義Definitio,神は最高に完全な実体であることを根拠に証明されています。したがってデカルトにとって神が全知であることは,神の本性essentiaに属することになります。そして神に無知を帰することは,それがすべての事柄に対してであれ,一部の事柄に対してであれ,不条理だと主張しています。
ところが,ライプニッツ主義では,デカルトやスピノザのように,神に全知を帰することは,本性に属することであれ,本性から帰結するようにであれ,認めることはできないのです。これがライプニッツ主義が抱える,神の完全性に関する難題の正体です。
難題自体はライプニッツ主義の中で解決されるべきものであり,僕はそういう問題が含まれているということは指摘しますが,解決策について考えることはしません。ただ,ライプニッツ主義が成立するためには,まず,神をモナドの中のモナドとして規定する必要があるのは間違いないと考えます。そしてそのような存在existentiaとして神が規定されたなら,神の認識cognitioのうちには真偽不明の事柄があるということが必然的にnecessario帰結すると考えます。いい換えれば,神は一部の事柄に関しては無知でなくてはなりません。もしも全知であることが最高に完全な実体の必要条件なら,ライプニッツの神は最高に完全summe perfectumではありません。またそれでも神は最高に完全であるというなら,最高に完全であるために,神は無知でなければならないのです。
これでこのテーマは終了です。明日からは糖尿病共生記です。
「自分が他人から憎まれていると表象し,しかも自分は憎まれる何の原因もその人に与えなかったと信ずる者は,その人を憎み返すであろう」。
『エチカ』の全体の中では,この定理Propositioは第三部定理四三といくらかの関係を有します。この定理の直後の備考Scholiumでスピノザが述べているように,もしも確かに他人の憎しみの原因となり得ることを自分が与えたと信じるなら,人は第三部諸感情の定義三一で示されている恥辱pudorという悲しみtristitiaを感じるでしょうが,そういうことは稀にしか起こらないからです。いい換えればそれは例外的といえます。よってある人間に対する憎しみはその人間の自分に対する憎しみを産み,その憎しみによって自分はさらにその相手を憎むという憎しみの無限連鎖が発生します。その連鎖を断ち切りたいならば,自分を憎んでいる相手を愛するほかないという帰結になります。
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漱石の妄想は,相手が自分を憎んでいるということを含んでいます。しかしそれは妄想なのであって,相手は実際に漱石を憎んでいたわけではありません。このあたりのことは漱石自身が日記に記していることを,公平な観点から一読すれば一目瞭然といえます。なのでその妄想によって漱石に憎まれていると表象したならば,その相手は当然ながら自分が漱石が自分を憎む原因を与えたなどとは考えません。したがって妄想に端を発する漱石の憎しみによって,漱石を憎むようになるでしょう。とくに漱石の被害妄想による憎み返しは,漱石の行動を伴うようなものでしたから,こうしたことは容易に発生したであろうと推測できるのです。
これはだれが正しいとか悪いとかいう問題ではありません。受動passioを免れ得ない人間の現実的本性actualis essentiaがそのようになっているというだけのことです。こうした受動の連鎖から逃れるために,能動actioが必要とされるのです。
デカルトの場合はどうでしょうか。
デカルトはスピノザと異なり,物体的実体substantia corporeaを神Deusと別の実体と規定します。また神を絶対に無限absolute infinitumであると規定しません。あるいは無限に多くの属性attributumが実在すると規定しません。よってデカルト哲学における神は,思惟的実体とほぼ同じ意味に解せます。僕はこの点はライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizもスピノザよりデカルトに近いのではないかと思えるのですが,そこには注目しないことにしましょう。
思惟的実体であるなら,全知であることはほとんど必須の条件であるといえるでしょう。『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定理九では,神は全知であるといわれています。そしてそれは,デカルトの神の定義Definitio,神は最高に完全な実体であることを根拠に証明されています。したがってデカルトにとって神が全知であることは,神の本性essentiaに属することになります。そして神に無知を帰することは,それがすべての事柄に対してであれ,一部の事柄に対してであれ,不条理だと主張しています。
ところが,ライプニッツ主義では,デカルトやスピノザのように,神に全知を帰することは,本性に属することであれ,本性から帰結するようにであれ,認めることはできないのです。これがライプニッツ主義が抱える,神の完全性に関する難題の正体です。
難題自体はライプニッツ主義の中で解決されるべきものであり,僕はそういう問題が含まれているということは指摘しますが,解決策について考えることはしません。ただ,ライプニッツ主義が成立するためには,まず,神をモナドの中のモナドとして規定する必要があるのは間違いないと考えます。そしてそのような存在existentiaとして神が規定されたなら,神の認識cognitioのうちには真偽不明の事柄があるということが必然的にnecessario帰結すると考えます。いい換えれば,神は一部の事柄に関しては無知でなくてはなりません。もしも全知であることが最高に完全な実体の必要条件なら,ライプニッツの神は最高に完全summe perfectumではありません。またそれでも神は最高に完全であるというなら,最高に完全であるために,神は無知でなければならないのです。
これでこのテーマは終了です。明日からは糖尿病共生記です。